【深掘り「鎌倉殿の13人」】一幡の誕生は、父の源頼家の不幸のはじまりだった
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の25回目では、源頼家に待望の男子・一幡が誕生した。一幡の誕生は頼家を危機に陥れたが、その辺りの背景を詳しく掘り下げてみよう。
■一幡とは
寿永元年(1182)8月、源頼家は頼朝の子として、比企能員の屋敷で誕生した。
頼家の乳母父には比企尼(頼朝の乳母)の養子の能員が選ばれ、乳母には比企尼の次女のほか、梶原景時の妻、比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻などが務めることになった。
頼家の周囲は、おおむね比企氏の一族によって固められた。比企氏は頼家だけでなく、頼朝に対しても影響力を持ったので、このことが頼家の後の生涯に大きく作用した。
とりわけ比企能員と梶原景時は、頼朝から頼家の貢献を依頼されるほど重要な人物だった。
元服した頼家は、能員の娘・若狭局を妻として迎えた。結婚したのは元服後と考えられるが、この期間の『吾妻鏡』の記事は欠落しており、確認することができない。
そして、建久9年(1198)、2人の間に男子が誕生した。この男子こそが一幡である。一幡の誕生を2人以上に喜んだのが、能員だった。
頼朝が亡くなった場合、当然、その後継者として有力なのは頼家である。また、頼家に何かあった場合、その長男である一幡が後継者の最有力候補だった。
頼家と一幡に影響力を持つ比企氏一族にとっては、こんなにうれしい話はなかったのである。
■その後の頼家
一幡が誕生する前から、頼家は立派に成長し、将来の「鎌倉殿」候補としてふさわしい人物になっていた。
建久4年(1193)、頼家は富士の巻狩りで見事に鹿を射止めた。政子は素っ気ない態度を見せたというが、頼家の巻狩りデビューは、御家人への披露という意味で重要だった。
建久6年(1195)、頼家は父・頼朝に伴われて、政子、大姫らとともに京都に向かった。このとき頼家は参内したので、朝廷は頼朝の後継者として認知したと考えられる。また頼家は、武芸に優れていたという。
建久8年(1197)、頼家は従五位上・右近衛権少将に叙位任官された。かつて、頼朝は右近衛少将になったのだから、頼家が次期将軍候補なのは、誰の目にも明らかだったといえる。
■まとめ
正治元年(1199)1月、頼朝が亡くなったので、頼家が次の鎌倉殿の地位を継承した。これは既定路線だったが、頼家にとっては不幸のはじまりだった。
というのも、先述のとおり、比企氏一族が頼家に強い影響力を持っていたので、将軍家外戚の地位は北条時政から能員に移り、2人の対立が激しくなったからだ。
その点については、改めて取り上げることにしたい。