大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝から理不尽な理由で処刑された武将が登場した。ドラマに登場しなかった人物も含め、3人の武将を取り上げて詳しく掘り下げてみよう。

■藤内光澄

 藤内光澄は、堀親家に仕えていた。親家は、伊豆国の豪族である(生年不詳)。治承4年(1180)8月に頼朝が挙兵すると、親家はただちに付き従い、各地を転戦した。

 光澄の生年や生涯については、不詳である。父母の名も出身地もわからない。親家が伊豆国の豪族なのだから、伊豆国の出身なのは疑いないだろう。

 寿永3年(1184)1月、木曽義仲は源義経らの軍勢に敗れ、粟津(滋賀県大津市)で討たれた。義仲は、嫡男の義高を頼朝のもとに人質(頼朝の娘・大姫の婿)として送っていたので、義高の身に危険が迫っていた。

 義高は故郷の信濃国を目指して逃亡する途中の同年4月26日、藤内光澄に討たれた。

 義高の死を知った許嫁の大姫は嘆き悲しみ、ついに病となった。母の北条政子は怒り狂い、頼朝に光澄の処分を強く迫った。その結果、光澄は殺害され、同年6月27日に梟首されたのである。

 政子は義高を討つことについて、事前に頼朝から相談がなかったことをなじったという。光澄は、頼朝の命に従って義高を討ったのだから、誠に理不尽な話である。

■河田次郎

 文治5年(1189)、頼朝は奥州征伐を敢行し、藤原泰衡の軍勢を打ち破った。負けた泰衡は、譜代で贄柵(秋田県大館市)の河田次郎を頼って逃亡したが、次郎は泰衡を裏切って殺害した。

 次郎は頼朝のもとに出向き、泰衡の首を差し出した。むろん、次郎は恩賞がもらえると思ったに違いない。泰衡の首は首実検後、柱に釘で打ち付けられて梟首された。この直後、次郎に悲劇が訪れた。

 次郎は恩賞をもらえると思ったかもしれないが、そうではなかった。頼朝は「次郎の手を借りずとも泰衡を討てた」と言うと、「泰衡の旧恩を忘れ、主を討つとは言語道断」と激怒し、次郎を斬罪に処したのである。

 いかに、主を討つことが当時の道徳に反するとはいえ、あまりに理不尽な話である。

■原小次郎(京の小次郎)

 建久4年(1193)5月、富士の巻狩りが行われた際、曽我兄弟(祐成、時致)は父の仇の工藤祐経を討つことに成功した。

 しかし、祐成は仁田忠常に討たれ、時致は頼朝の屋敷に向かったが捕縛され、その後処刑された。ところが、話はこれで終わらない。

 曽我兄弟の弟らは、縁座となり自害して果てた。源範頼は頼朝の死の一報を受け(これは誤報だった)、自らが「鎌倉殿」になろうとしたとの嫌疑を掛けられ、伊豆修善寺に幽閉された(その後、死去)。

 このとき意外と知られていないが、曽我兄弟の同母兄弟の原小次郎(京の小次郎とも)も縁座して斬首されたことだ。

 ただ、小次郎がいかなる理由で処刑されたかは不明であり、一説によると範頼との関係であるといわれている。理不尽と言えば、理不尽である。

■まとめ

 彼らは頼朝に忠誠心を示し、恩賞がもらえると考えていたが(小次郎除く)、それどころか処刑されてしまった。記録に残る以外でも、悲惨な目に遭った武将はほかにもいるだろう。