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【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経だけでなく、兄の範頼も犯していた大失態

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源範頼が幽閉された修善寺。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の22回の最後の場面では、源範頼が嫌疑を掛けられたところで終わった。大失態と言えば義経にもあったが、実は範頼も犯していたので、詳しく掘り下げてみよう。

■優等生だった源範頼

 大失態と言えば、源義経である。義経は兄の頼朝に許可を得ることなく、朝廷から官位を授けられ、頼朝の不興を蒙った。そうした大失態が重なり、ついに頼朝は義経の討伐を決意した。義経が非業の死を遂げたのは、すでに大河ドラマで放映されたとおりである。

 その点、範頼は無難に諸事をこなし、頼朝からの信頼が厚かったといえる。平家滅亡と言えば、義経のイメージが非常に強いが、実際は範頼のサポートなくしては、成しえなかったことである。

 義経はあまりの態度ゆえに消されたが、範頼は「まさか」と思ったに違いない。以下、範頼の大失態について考えてみよう。

■範頼が犯した大失態①

 元暦元年(1184)1月、範頼は義経とともに、木曽義仲を討つべく京都へ出陣した。範頼は後発部隊で、先に出陣していた義経の先発部隊と合流する計画だった。

 その途次の尾張国墨俣渡(岐阜県大垣市)で、事件が勃発した。あろうことか、範頼は先陣争いで御家人と言い争いになり、ついには乱闘する騒ぎになったのだ。範頼は大将の地位にあったのだから、統率力を問われる事件であり、大きな失態だったといえる。

 事態を重く見た頼朝は、激怒したと伝わっている。敵は義仲なのだから、内輪揉めしている場合ではなかった。結局、範頼は頼朝から謹慎させられ、何度も謝罪をしたので、何とか許された。その後、範頼は三河守に任じられたのだから、頼朝の期待は大きかったのだろう。

■範頼が犯した大失態②

 建久4年(1193)5月、曽我兄弟の仇討ちによって、工藤祐経が殺害された。『保暦間記』によると、仇討ちの際に頼朝が討たれたとの一報が鎌倉にもたらされたと書かれている。

 「頼朝死す」の報告を耳にした北条政子は、あまりのことに激しく動揺したと伝わっている。しかし、範頼は至って冷静に「鎌倉殿がいなくなっても、それがしがおります」と述べたという。『保暦間記』は、このことが原因で範頼は討たれたと記すが、事実ならば範頼の大失態である。

 しかし、『保暦間記』はこの時代を知るうえでの重要史料であるが、成立が南北朝時代ということもあり、範頼が討たれた理由が史実か否かは一考を要する。

■まとめ

 範頼が犯した大失態①がその後にどれだけの悪影響を及ぼしたのかは不明である。しかし、範頼が犯した大失態②が事実ならば、大変なことである。しかし、史料の性質を考えると、史実であるか否かは不明といわざるを得ないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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