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【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼家は巻狩りで鹿を射ても、なぜ北条政子から褒められなかったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条政子は、なぜ源頼家を褒めなかったのか。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の23回目では、源頼家が巻狩りで鹿を射ても、なぜか北条政子から褒められなかった。なぜ政子は頼家を褒めなかったのか、詳しく掘り下げてみよう。

■特別だった源頼家

 頼家が誕生したのは、寿永元年(1182)8月12日である。幼名は、ドラマでも呼ばれているように万寿である。源頼朝と北条政子にとっては、後継者たる待望の男子だった。

 頼家の乳母には、比企能員の妻など比企一族の女性、梶原景時の妻が選ばれた。比企氏、梶原氏は有力な御家人だったので、頼家は万全の体制でバックアップされたことになる。事実、能員と景時は、頼朝の指名によって、頼家の後見人となった。

■富士の巻狩り

 建久4年(1193)5月8日から約1ヵ月にわたって、頼朝は富士(静岡県裾野市)で巻狩りを行った。巻狩りとは、四方から鹿や猪を取り囲み、獲物を射止める狩猟である。

 とはいえ、これは単なる狩猟ではなかった。頼朝は前年に武家の棟梁たる征夷大将軍に就任し、その武威を天下に知らしめる必要があった。したがって、巻狩りは頼朝の権威を知らしめると同時に、軍事訓練的な要素もあったと指摘されている。

 巻狩りに参加した人数は、『曽我物語』に書かれているが、諸本によって「3万」、「12万」、「300万」とバラバラである。3万でも多すぎるような気がしないわけでもない。

■鹿を射た頼家

 同年5月16日、巻狩りに出掛けた頼家は、初めて鹿を射た。このとき頼家は、数えで12歳の子供である。父の頼朝は、我が子の成長ぶりに大いに喜んだ。親バカかもしれないが、気持ちはよく理解できる。

 その後、山神・矢口祭が執り行われ、頼朝や御家人は大いに喜んだ。初めて鹿を射るということは、武士の子にとって非常に意味のあることだった。

 そこで、大喜びした頼朝は、梶原景時を使者として、政子に頼家が初めて鹿を射たことを報告させた。しかし、政子は大喜びするどころか、態度は誠に素っ気ないものだった。

 その答えは「武士の嫡男なら鹿を射るなど当たり前のことで珍しくない。わざわざ使者を寄こすほどでもない」というものだったのである。これでは、頼朝も頼家もがっかりだろう。

■政子の素っ気ない答えの理由

 政子の素っ気ない答えをした理由については、3つの見解が提示されている。

 1つ目は、政子が頼家の初鹿狩りの意義を理解できなかったというものであるが、武士の妻が知らないなんてことはないだろう。

 2つ目は、頼家と比企氏がつながったことに強い嫌悪感を示したからだといわれている。しかし、それはのちに比企氏が討伐されたという結果論から導き出されたもので、この時点でそうとはいえないのではないか。

 3つ目は、頼家を貶めるため、あえて『吾妻鏡』が嘘を書いたとするものである。のちに頼家は死に追いやられたので、こちらのほうに妥当性があるように思える。

■まとめ

 ともあれ、もはや政子が頼家が鹿を射たことに対して、素っ気ない態度をしたのか否かは知りようがない。ただ、『吾妻鏡』は後世の編纂物なので、記述内容をそのまま鵜呑みにするわけにはいかないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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