【戦国こぼれ話】今、話題沸騰の名刀「山姥切国広」とは、どんな刀なのか
今、栃木県足利市が名刀「山姥切国広」を購入すべく検討中とのことで、話題沸騰である。そもそも「山姥切国広」がどのような刀なのか、詳しく掘り下げてみよう。
■「山姥切国広」と堀川国広
「山姥切国広(やまんばぎりくにひろ)」は国の重要文化財で、現在は個人が所有している。銘によると、天正18年(1590)2月吉日に刀工の堀川国広が長尾顕長の依頼によって、作刀したことが判明する。昭和37年(1962)6月21日、「山姥切国広」は重要文化財に指定された。
「山姥切国広」は、顕長が北条氏政から下賜された長船長義の刀を模したものである。長船長義は、南北朝時代に活躍した備前国長船派の刀工として知られる。なお、作刀された場所は、足利学校(栃木県足利市)と小田原(神奈川県小田原市)の2説がある。
刀工の堀川国広は、享禄4年(1531)に日向国で誕生した。最初、日向の大名伊東氏に仕えていたが、没落したので、放浪をしながら作刀を続けたという。
放浪のとき、国広が山伏として修行していたことは、残された刀の銘に「山伏之時打之」とあることから明らかである。少なくとも天正12年(1584)までは、山伏だったようである。国広は慶長4年(1599)頃から京都に住みはじめ、慶長19年(1614)に亡くなった。
国広の刀は、重要文化財、重要美術品に指定されているものが多く、「山姥切国広」もその一つである。加藤清正の愛刀も、国広作の刀である。
■長尾顕長とは
弘治2年(1556)、長尾顕長は由良成繁の子として誕生した。のちに、顕長は長尾景長(当長)の娘と結婚し、婿養子になった。
天正10年(1582)、顕長は兄の由良国繁とともに滝川一益に仕えたが、その後、北条氏の配下となった。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐では、小田原城に籠って抵抗した。
北条氏の滅亡後は所領を取り上げられ、佐竹義宣に仕官したこともあったが、再び召し放たれたので、牢人生活を送ったと伝わっている。顕長が亡くなったのは、元和7年(1621)である。
■むすび
「山姥切国広」の名が知られるようになったのは、ゲーム『刀剣乱舞』だろう。足利市にすれば、観光の目玉にもなるので、ぜひとも入手したいと考えたのかもしれない。今後どうなるのか注目しよう。