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【深読み「鎌倉殿の13人」】曽我兄弟が工藤祐経を討った、仇討ちの全貌とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
曽我兄弟による仇討ちは、富士山西南麓で決行された。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の23回目では、曽我兄弟による仇討ちが描かれていた。仇討ちの原因や経過について、詳しく掘り下げてみよう。

■工藤祐経と曽我兄弟

 工藤祐経は祐継の子として誕生したが、父の祐継は祐経が幼い頃に亡くなった。その際、後見人になったのが、伊東祐親である。祐経が元服を迎えると、祐親の娘を妻に迎えた。その後、祐経は祐親とともに上京し、当時、平家一門の平重盛(清盛の子)に仕えたのである。

 ところが、祐親はとんでもない行動に出た。祐親は祐経の領有する伊東荘(静岡県伊東市)を奪い取るだけでなく、祐経に嫁がせていた娘を離縁させ、土肥遠平に嫁がせた。むろん、妻も所領も奪われた祐経が黙っていたわけではなく、安元2年(1176)10月に反撃を決行した。

 祐経は祐親の殺害を計画し、祐親と子の祐泰が伊豆奥野(静岡県伊東市)に狩りに出掛けた際、郎党に襲撃させたのである。その結果、祐親は助かったものの、子の祐泰は討たれてしまった。

 祐泰には、妻と一萬丸、箱王という二人の兄弟がいた。2人の兄弟は元服して、曽我祐成、曽我時致と名乗った。曽我兄弟は、建久4年(1193)に祐経を討ち、父の仇を取ったのである。この点をもう少し詳しく述べておこう。

■曽我兄弟による仇討ちの決行

 曽我兄弟による仇討ちについては、『吾妻鏡』のほか『曽我物語』にも書かれている。2人が仇討ちを決行したのは、建久4年(1193)5月28日のことで、舞台は富士野(富士山西南麓一帯。静岡県富士宮市)だった。

 同年5月15日、源頼朝は富士野で巻狩りを行うべく、旅館へと入った。巻狩りとは、大勢で狩場を包囲し、中に獣を追い詰めて射取る狩猟のことである。頼朝が富士野で巻狩りを行ったのは、翌5月16日のことだった。

 曽我兄弟の仇討ちが行われたのは、同年5月28日のことである。曽我兄弟は、工藤祐経が泊まっていた神野の御旅館を襲撃し、見事に父の仇を取ったのである。

 曽我兄弟の仇討ちにより、現場は騒然とした。曽我兄弟を討ち取るべく御家人が馳せ参じ、両者の間で激しい戦いとなった。兄の曽我祐成は、仁田(新田)忠常によって討たれた。弟の曽我時致は頼朝を討とうとしたが、無念にも取り押さえられたのである。

 翌5月29日、生き残った時致の処遇について検討され、頼朝は罪を許すよう提案した。しかし、祐経の遺児・犬房丸(のちの伊東祐時)の涙ながらの訴えにより、時致は処刑され、その首は梟首されたのである。

■まとめ

 その後、曽我兄弟が母に送った手紙が頼朝に披露された。頼朝はその手紙を読んで涙を流し、祐成の愛人だった虎御前ら関係者を赦免した。そして、曽我兄弟の菩提を弔うよう命じ、曽我荘(神奈川県小田原市)の年貢も免除したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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