【戦国こぼれ話】天下人の信長、秀吉、家康のイメージは、大した根拠のないものだった
本年10月、名古屋市名物の「名古屋まつり」が3年ぶりに開催されるという。コロナで開催を控えていたが、明るいニュースである。
ところで、まつりの主人公となる信長、秀吉、家康の印象は変わりつつあるので、その辺りに触れておこう。
■従来の三英傑のイメージ
天下人となった三英傑とは、尾張、三河が生んだ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人のことである。ほぼ同じ時代に活躍したのだから、偶然とはいえ驚きである。この3人の性格を示すものとして、下記の3つの狂句が知られている。
- なかぬなら 殺してしまへ 時鳥 織田右府(信長)
- 鳴かずとも なかして見せふ 杜鵑 豊太閤(秀吉)
- なかぬなら 鳴まで待よ 郭公 大権現様(家康)
いずれも三英傑の性格をあらわす狂句として、よく知られたものである。
この狂句は、19世紀半ばに成立した『甲子夜話』に記されたもので、著者は肥前国平戸藩主の松浦静山である。つまり、三英傑が活躍した時代から、おおむね240年前後を経過しているのだ。
■それぞれのイメージ
信長の狂句は、信長が非常に短気で、かつ残酷な性格を言い表している。たしかに、信長は歯向かう者がいたら、四の五の言わず攻め滅ぼした。
秀吉の狂句は、知恵者のイメージを見事に表現しており、創意工夫で立身出世したイメージにぴったりである。備中高松城の水攻め、三木城の兵糧攻めはその一つだろう。
家康の狂句は、苦労人で辛抱強い印象を表現した。家康は幼い頃から人質生活を送り、信長、秀吉に仕えたあと、彼らの死後は見事に天下人の座を射止めた。
■歪められたイメージ
とはいえ、3つの狂句が三英傑の性格を見事に言い表したというのは、あくまで俗説に基づく印象に過ぎない。実際、三英傑の性格を見ると、必ずしもイメージとぴったりとはいえない。
信長は短気で、すぐに逆上しやすい面があったかもしれないが、辛抱強い側面もあった。たとえば、荒木村重が謀反を起こした際は理由を尋ねたし、本願寺が和睦を申し入れると応じることもあった。つまり、信長が短気というのは、一面に過ぎないのである。
秀吉は知恵者で創意工夫を凝らす印象があるが、実際は信長以上にキレやすい面もあった。小田原北条氏が弁明の使者を送って来ても、一切聞く耳を持たず、征伐を敢行した。
文禄・慶長の役では、味方の士気が低下していたので、現地の武将が撤退を進言したが、逆ギレして撤退を認めなかったほどだ。
家康は信長、秀吉が先に死んだので、「棚から牡丹餅」で天下を手に入れたように思われがちだが、決して偶然とはいえないだろう。信長、秀吉の配下だった頃から、着々と権力基盤を固め、ナンバー2の地位をゆ揺るぎないものにしていた。その布石があったのだ。
■むすび
江戸時代になると、歪んだ形で三英傑のイメージが巷間に流布した。狂句は、その印象に基づいて作られたに過ぎない。三英傑の実像は複雑なので、決して単純化できないであろう