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【深読み「鎌倉殿の13人」】死亡フラグが立った、迫田孝也さんが演じる源範頼とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源範頼が殺害された修善寺。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の22回目では、御家人らが源範頼を鎌倉殿にと熱望するシーンが見られた。範頼とはいかなる人物なのか、詳しく掘り下げてみよう。

■源範頼とは

 源範頼は、義朝の子として誕生した(生年不詳)。兄は頼朝、弟が義経である。母は遠江国池田宿(静岡県磐田市)の遊女だったので、頼朝や義経の母よりも身分は低かった。とはいえ、このことは決して範頼のハンデにはならなかった。

 範頼は蒲御厨(静岡県浜松市)で誕生したので、「蒲冠者」と称された。ドラマで御家人が「蒲冠者殿」と呼んだ所以である。その後、範頼は公家の高倉季範に育てられ、その諱を与えられて「範頼」と名乗った。

 治承4年(1180)に頼朝が打倒平家の兵を挙げると、範頼は甲斐源氏に従ったといわれている。その後の志田義広(範頼の叔父)討伐に際しても、出陣したことが確認される。挙兵当初、範頼はすぐに頼朝のもとにはいかなかったようだ。

 寿永3年(1184)、範頼は義経とともに木曽義仲を討伐すべく、京都へと出陣した。範頼には、大将軍という役割が与えられた。しかし、範頼は御家人らと尾張国墨俣渡で先陣争いを演じ、乱闘騒ぎになった。その事実が頼朝に報告され、勘気を蒙ったのである。

■平家追討に貢献

 義仲の死後、範頼は義経とともに都落ちした平家を追討すべく出陣した。同年2月の一ノ谷の戦いで、範頼は義経と協力し、平家を屋島へと敗走させた。

 その後、範頼は御家人との乱闘の件で、頼朝から謹慎を命じられたが、詫びを入れて許された。その甲斐あってか、同年6月に範頼は三河守に任じられた(このとき義経に官職は与えられなかった)。頼朝が範頼を厚遇していたのは明らかだ。

 同年8月、範頼は頼朝に命じられ、平家の影響力が根強く残る九州への出陣を命じられた。範頼は兵糧の確保などで大いに苦労するが、豊後国の豪族らの助力を得ることができた。これにより、義経、範頼軍は有利になった。

 文治元年(1185)3月、範頼が九州方面に基盤を築き、義経の軍略が冴えわたったこともあり、平家は壇ノ浦の戦いで滅亡した。しかし、のちに義経は頼朝と確執が生じ、奥州平泉に逃亡したのである。

 文治5年(1189)閏4月、義経は藤原泰衡の軍勢に急襲され自害した。同年7月、頼朝は奥州藤原氏征伐の兵を挙げると、範頼もともに出陣したのである。その結果、東北で栄耀栄華を極めた奥州藤原氏は滅亡した。 

■まとめ

 範頼は弟の義経とは違って、頼朝には従順だったという。しかし、次回あるいは次々回に範頼は殺害されるはずである。その点は、追って解説することにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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