【深読み「鎌倉殿の13人」】坂東彌十郎さんが演じる北条時政が京都で朝廷との折衝を担当した理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の21回目では、北条時政が京都で朝廷との折衝を担当する場面があった。なぜ時政がそんな重要な役割を与えられたのか、詳しく掘り下げてみよう。
■重要だった朝廷の存在
源頼朝は打倒平家の兵を挙げ、見事に本懐を成し遂げた。しかし、頼朝が東国に築いた権力基盤は、朝廷の存在を抜きにしては語れない。朝廷と交渉することで、東国経営のお墨付きを得たのは、よく知られたことである。
むろん、それだけではない。平家追討のみならず、木曽義仲の追討、源義経の追討に際しても、朝廷のお墨付きを得ることに重要な意味があった。極論を言えば、頼朝が何をするにしても、朝廷との折衝が必要だったといえよう。
■京都守護だった北条時政
文治元年(1185)、頼朝は念願だった平家の討伐を成し遂げたが、予想外にも弟の義経との関係がこじれてしまった。義経は頼朝追討の宣旨を得るが、味方の兵が集まらず都落ちしたが、頼朝の怒りは収まらなかった。
そこで、同年11月、頼朝は時政に上洛を命じて、これらの問題を折衝させた。時政は1千余騎の兵を引き連れ入京すると、朝廷に交渉して諸国に守護・地頭の設置を認めさせた。これは、逃亡した義経らを捕らえるためだった。なお、守護・地頭の設置により、鎌倉幕府が成立したとの見解が有力である。
時政の職務は京都の治安維持に加え、平家の残党の捜索、義経の追捕など多岐にわたった。時政の仕事ぶりは朝廷から評価を得る一方、都の生活に不慣れだったので、ときに失態を演じることもあったという。
■京都を去った時政
翌年3月、時政は7ヵ国地頭の職を辞し、惣追捕使の地位だけに止まっていたが、月末には京都警護のためのわずかな手勢を残し、鎌倉へと戻った。むろん、それには理由があったようである。
時政は軍勢を率いて上洛したが、配下の将兵が乱暴狼藉を働くことが問題視された。時政は守護・地頭の設置という所期の目的を果たしたので、問題が大きくなる前に離京したということになろう。後任は、一条能保である。
■まとめ
時政が頼朝の命を受け、上洛して朝廷との交渉を担当したのは、やはり舅という関係だけでなく、高い交渉能力を買われたからだろう。頼朝はこれだけの重大事を時政に託したのだから、もっとも厚く信頼していた腹心だったのはたしかである。
しかし、このあと時政の活動は目立たなくなる。その点は、追々取り上げることにしよう。