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【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝の意に添わず、無残にも消された源氏の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
木曽義仲の墓。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝の意に添わず、消された源氏の武将が何人か登場した。すでに、源義経に関しては随所で取り上げたので、ほかの武将を取り上げ詳しく掘り下げてみよう。

■木曽義仲(1154~84)

 木曽義仲が入洛して、平家を都から追放したのは寿永2年(1183)のことである。その際、叔父の源行家が協力したことは、非常に重要である。その後、義仲は平家追討の院宣を与えられた。

 ところが、折からの飢饉によって、義仲配下の将兵は民家から食糧を強奪するありさまだった。義仲自身も無作法だったので朝廷で失態を演じ、やがて朝廷のみならず、都の人々の心までも離れていった。

 この頃、後白河法皇は源頼朝に急接近し、義仲と距離を置きはじめた。そこで、義仲は後白河を幽閉するという暴挙に出た。その結果、頼朝は弟の義経と範頼を派遣し、義仲を追討する決意をしたのである。

 元暦元年(1184)、義仲は義経らの軍勢に敗れて敗走。近江国粟津(滋賀県大津市)で無念にも戦死したのである。

■一条忠頼(?~1184)

 一条忠頼は、甲斐源氏の武田信義の嫡男だった。寿永3年(1183)1月、忠頼は木曽義仲を追討すべく、軍勢を率いて出陣した。

 しかし、元暦元年(1184)6月16日、一条忠頼は突如として鎌倉で殺害された。酒宴に招かれたところ、天野遠景らに討たれたという。忠頼が殺害された理由は、威勢を振るい、頼朝への謀反を画策していたからだと言われている(『吾妻鏡』)。

 養和元年(1181)、父の信義に後白河法皇から頼朝追討使に任じられたという噂が流れた。そこで、頼朝はただちに信義を呼び出し、「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」という起請文を書かせた。

 元暦元年(1184)6月5日、信義の保持していた駿河守は源広綱に与えられた。頼朝が信義、忠頼の地位低下を画策して、信義から駿河守を取り上げて広綱に与え、忠頼に謀反の嫌疑を掛けて殺害した可能性はあろう。

 つまり、頼朝による信義の駿河守の解任、忠頼の殺害は、あらかじめ計画されていた可能性が高い。 

■源行家(?~1186)

 源行家は為義の子で、頼朝の叔父である。保元元年(1156)の保元の乱で為義が敗れると、紀州熊野で匿われて生活した。しかし、治承4年(1180)に頼朝が挙兵すると、強い存在感を示した。

 とはいえ、行家は自ら軍事力を持っているわけではなく、むしろ類稀なる交渉力が持ち味だった。養和元年(1181)、行家は頼朝に上洛を促したが、失敗。その後、墨俣川で平重衡と戦って敗れ、頼朝に助けを求めたが拒否された。

 失意の行家は、頼朝に先んじて入洛した義仲と協力関係を結んだ。ところが、先述したとおり、義仲の立場が悪くなると、行家はさっさと義仲に見切りをつけて紀伊に逃れた。

 平家の滅亡後、行家は源義経が頼朝との関係が悪化したと知るや、協力して頼朝を討とうと義経に持ち掛けた。しかし、これが失敗に終わると逃走し、文治2年(1186)に和泉国で討たれたのである。 

■まとめ

 彼ら3人が頼朝に討たれた理由はさまざまであるが、大誤算があったのは共通している。彼らはみな「頼朝に勝てるかもしれない」と思ったかもしれないが、その厚い壁に阻まれたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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