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【深読み「鎌倉殿の13人」】後白河法皇が「日本第一の大天狗」と称された納得の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
後白河法皇は、「日本第一の大天狗」と称された。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第21回では、源頼朝と後白河法皇との対立が描かれていた。ところで、後白河法皇は「日本第一の大天狗」と称されたが、その理由を詳しく掘り下げてみよう。

■後白河天皇の即位

 久寿2年(1155)、後白河天皇は29歳で即位した。鳥羽法皇は守仁親王(後白河の子で、のちの二条天皇)に皇位を伝えるべく、異例の措置を行ったという。

 これに不満を持った崇徳上皇は、保元元年(1156)に保元の乱を起こした。その結果、崇徳方は敗れ、後白河が勝利した。このとき活躍したのが、源義朝と平清盛である。

 その後、後白河は二条天皇に皇位を譲り、院政を開始したのである。

 平治元年(1159)の平治の乱では、清盛の武力によって反対派を討った。源義朝は逃亡中に討たれた。しかし、その清盛が台頭すると、だんだん邪魔になってきた。

 治承元年(1177)、打倒平氏の謀議を行った鹿ケ谷事件が発覚すると、院近臣は処罰され、その2年後に後白河は清盛によって幽閉された。万事休すだった。

■源氏の台頭

 ところが、清盛が亡くなる前後から、諸国で打倒平氏の気運が高まり、後白河に追い風が吹いた。以仁王、源頼政は、平家を相手に敗北したが、以後の平家は連戦連敗だった。結局、平家は都落ちし、後白河にとっては誠に好都合な展開になった。

 平家の没落後、最初に入京したのは、木曽義仲である。しかし、義仲は都の生活に慣れないうえに、折からの飢饉で食糧不足だったので、義仲配下の将兵は食糧を強奪するありさまだった。これは後白河にとって大誤算で、義仲の存在が疎ましくなった。

 同じ頃、上洛してきたのは、源頼朝の弟・義経だった。義経は義仲を討ったので、のちに後白河は義経に官職を与えた。官職の授与は頼朝に無断で行ったので、頼朝と義経の関係が悪化した。無断の授与は、後白河が意図したものか、そうでないのかは不明である。

■頼朝・義経兄弟を翻弄する

 壇ノ浦の戦いで平家が滅亡したものの、義経と頼朝との関係は回復しなかった。結局、頼朝は謝罪のため鎌倉を訪れた義経との面会を拒否し、2人は決裂した。義経は帰京し、頼朝追討の宣旨の発給を後白河に要請すると、ただちに発給された。

 ところが、義経のもとには意外に軍勢が集まらず、今度は頼朝が後白河に対して、義経追討の宣旨の発給を要請した。結局、義経は奥州平泉に逃れたが、頼朝の派遣した兵の攻撃を受け、自害に追い込まれた。

 頼朝は後白河から東国の経営権を認められていたが、さらに各地に守護・地頭の設置の許可を求めた。これは認められ、頼朝が鎌倉幕府を築く礎となったのである。

 とはいえ、後白河は自分が生きている間には、頼朝が希望した征夷大将軍職を与えなかった。それは、後白河が最後の切り札として残していたのか、たまたまなのかは不明である。

 後白河はさまざまな策を弄したので、頼朝から「日本第一の大天狗」と称された。その老獪な手腕は恐れられたのである。 

■まとめ

 後白河は武家政権誕生という画期となる時代において、清盛、頼朝、義経といった名立たる武将を手玉に取った。ダメになった武将は、即座に切り捨てるなど、変わり身も早かった。

 頼朝が老獪だった後白河を「日本第一の大天狗」と称したのは、うなずけるところだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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