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【深読み「鎌倉殿の13人」】ぜひ行ってみたい、各地にある「弁慶の腰掛石」などの史跡

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
岩手県平泉町にある武蔵坊弁慶の墓。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第20回では、源義経が討たれ、配下の弁慶も討ち死にした。ところで、全国各地には弁慶の腰掛石などの史跡があるので、詳しく掘り下げてみよう。

 弁慶は源義経に従って合戦に出陣し、頼朝から追われる身になると、義経とともに奥州平泉を目指した。理由は不明であるが、各地に弁慶にまつわる史跡は数多い。以下、代表的なものを掲出しておこう。

■弁慶の腰掛石①

 和歌山県田辺市の八坂神社の近くには、「弁慶腰掛の岩」がある。「弁慶腰掛の岩」には人が座ったような窪みがあるが、これは子供の頃の弁慶が腰を掛けた跡であると伝わっている。この付近では男子が誕生すると、弁慶のような立派な子に育つよう「弁慶腰掛の岩」に座らせたという。

■弁慶の腰掛石②

 神奈川県鎌倉市の満福寺といえば、源義経が腰越状(源頼朝に許しを乞うた書状)を書いたことで有名な寺である。ここには、「弁慶の腰掛石」、「弁慶の手玉石」がある。また、弁慶が池の水で墨をすって、腰越状の下書きを執筆したといわれ、その池は「硯の池」と称されている。

■弁慶の力石①

 徳島県板野町には、「弁慶の力石」がある。義経と弁慶は屋島の戦いのとき、金泉寺で休息を取った。その際、弁慶は自分が怪力出ることを誇示するため、巨大な石を持ち上げたという。各地には、「弁慶の力石」が少なからずある。

■弁慶の力石②

 神奈川県藤沢市の白旗神社には、「弁慶の力石」がある。その由来は定かではないが、かつて付近の力自慢の人々が石を持ち上げ、力比べをしたという。なお、白旗神社には、首実検を終えた義経と弁慶の首が鎌倉から神社まで飛んできたという逸話がある。

■弁慶の足跡

 兵庫県三木市には、「弁慶の足跡」がある。義経が三草山の戦いで平家を討ち破ると、平家は一ノ谷を目指して落ち延びた。義経と弁慶も平家を追い掛け、今の三木市に入った。そこには、人の足跡と思われる凹みのある石があり、それが「弁慶の足跡」と伝わっている。石の表には石仏が彫られている。

■弁慶の墓

 岩手県平泉町の中尊寺表参道入口前には、「伝弁慶の墓」があり、特別史跡に指定されている。墓の側には、素鳥(中尊寺の僧)が詠んだ「色かへぬ 松のあるしや 武蔵坊」の句碑が経っている。なお、近くの千手院には、義経とその妻子の墓がある。

■まとめ

 弁慶にまつわる史跡は、ここには書けないくらいたくさんある。弁慶は平泉で義経とともに死んだといわれているが、蝦夷地に渡ったという伝承の影響か、北海道にも多数の弁慶にまつわる史跡がある。もうドラマに弁慶は出ないだろうが、関連史跡を訪ねてみるのもいいだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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