大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第20回では、源頼朝に追われた源義経の逃避行が省略されていた。安宅関で義経が弁慶に打ち据えられた逸話があるが、事実なのか詳しく掘り下げてみよう。

■都落ちした源義経

 源義経が平家追討の立役者であることは、誰もが認めるところであるが、頼朝の推挙を得ずして任官するなど、問題行動が多かったことも事実である。

 文治元年(1185)10月、頼朝と決裂した義経は、後白河から頼朝追討の宣旨を得た。しかし、義経に与する勢力はなく、敗勢が濃いと感じた義経は、同年11月に都落ちを決断する。

 最初、義経は九州に落ち延びようとしたが、船が暴風雨で難破し、摂津に漂着するというありさまだった。その間、逆に頼朝は義経追討の宣旨を獲得し、徹底した追捕を開始する。

 義経は畿内に潜伏しつつ、吉野山(奈良県吉野町)へと逃れた。しかし、ここも安住の地ではなく、頼朝の追っ手により襲撃され、静御前が捕らわれの身となったのである。

■安宅関の逸話

 義経の逃避行のなかで、もっとも有名な話が安宅関での出来事だろう(後述)。この逸話は歌舞伎の演目「勧進帳」として上演され、広く人々に知られるようになった。

 天保11年(1840)3月、江戸の河原崎座で初めて「勧進帳」が上演され、義経を8代市川團十郎、弁慶を7代市川團十郎、富樫を2代市川九蔵が演じ、好評を博した。次に、ストーリーを示しておこう。

 弁慶らと逃避行を続ける義経は、山伏の姿に身をやつして、ようやく加賀国安宅関(石川県小松市)にたどりついた。しかし、頼朝は血眼になって義経らを探しており、各地に見つけたら捕縛するよう伝えていた。

 関所なので人改め(不審者がいないかの確認)が行われており、義経一行が関所を通ろうとすると、「山伏を通すことはできない」と通過を拒否された。関所を守る富樫は、義経が山伏姿であることを知り、通さないようにしていたのだ。

 弁慶が「東大寺再建のための勧進を行っている」と言い逃れようとすると、富樫は「ならば、勧進帳を読んでみよ」といった。そこで、弁慶は白紙の勧進帳を取り出し、朗々と読み出したのである。弁慶は富樫の質問に対しても、まったく淀みなく答えた。

 富樫は通行を許可するが、山伏姿の義経が通ろうとすると、配下の者が「義経ではないか」と疑念を掛けた。すると、弁慶は金剛杖で義経を激しく打擲し、なんとか疑いを払拭したのである。富樫らは、いくら弁慶でも、主君を打擲しないだろうと思ったのだ。

 その後、義経は弁慶のとっさの機転に感謝したが、弁慶は「無礼なことをした」と涙ながらに謝った。すると富樫が姿をあらわし、非礼(義経を疑ったこと)を詫び、酒を勧めた。弁慶が酒を飲み、舞いを舞っている間に義経は逃亡し、弁慶もそのあとを追ったのである。

■むすび

 もはや言うまでもないだろうが、これは江戸時代末期に成立した創作に過ぎない。富樫は弁慶の芝居を知っていたが、あえて情けをかけて逃がしてやった。こういう人情噺が、当時の人には受けたのである。むろん、同様のことが頼朝の時代にあったならば、すぐに捕まえられただろう。