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【深読み「鎌倉殿の13人」】壇ノ浦の勝利に酔いしれず、次の手を打っていた源頼朝

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝は壇ノ浦の勝利に酔いしれず、ただちに戦後処理を行った。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第18回では、源義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追い込んだ。その後、源頼朝は勝利に酔いしれず、ただちに戦後処理を行った。その点を詳しく掘り下げてみよう。

■ただちに行われた戦後処理

 元暦2年(1185)3月24日、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、源頼朝は勝利に酔いしれることなく、ただちに戦後処理を行った。

 同年4月12日、頼朝は鎌倉で評定を催した。まず範頼はそのまま九州に留まらせ、平家方の没収所領の措置を行わせるよう決定した。義経には、生け捕った平家の武者を鎌倉に連行するよう命じた。

 問題だったのは、御家人のなかで頼朝に断ることなく、朝廷から官位を授けられた者たちだった。彼らには本国に戻ることを許さず、そのまま京都で陣役を勤めるよう命じた。

 万が一、彼らが頼朝に無断で墨俣より東に入った場合は、本領の没収、斬罪という厳しい処分を科すと、あらかじめ通告していた。それだけでなく、無断で任官した小山朝政ら24名の御家人を列挙し、悪しざまに激しく罵倒したのである。

 ところが、この24名のなかには、無断任官した義経の名前を確認することができない。義経が弟だったので、あえて名前を挙げなかったのか、のちほど処分を決めようとしたのか、何かほかに理由があったのか不明である。

 頼朝がこのような厳しい処分を行ったのはほかでもない。御家人はあくまで頼朝が主宰する東国政権の秩序に従うべきであり、朝廷の意向に沿うことがあれば、厳しく接するというメッセージである。

 頼朝は壇ノ浦の戦いでの勝利、平家滅亡という事実に酔いしれることなく、東国における独自の政治秩序の構築に動いていたのである。

■源義経への対応

 頼朝は、無断で任官した義経の対応を考えあぐねていた。というのも、範頼は思うように結果が残せず、壇ノ浦の戦いでは義経を頼らざるを得なかった。

 義経は頼朝の代官であるにもかかわらず、期待に応え、戦場では大活躍をした。配下の武者たちの厚い信頼を勝ち取ったはずである。下手をすれば、頼朝の地位が脅かされる可能性があった。

 同年4月29日、頼朝は田代信綱に書状を送った。その内容は、次のとおりである。

「義経は頼朝の代官として西国に遣わしたが、あろうことか代官の立場を忘れ、自分勝手な振る舞いをした。侍たちをあたかも自分の家臣のように扱ったので、恨んでいる者も多い。今後、頼朝に忠義の心のある者は、義経に従うべきではない」

 実は、この直前、梶原景時は頼朝に対して、義経の自分勝手な振る舞いを報告していた。これまで軍功に免じて、頼朝は義経を甘く処遇していたが、この一報により、義経を処断する方向に舵を切ったのである。

■むすび

 同年5月4日、頼朝は景時に対して、「義経を勘当するので、以後は従わなくてよい」と伝えた。このとき頼朝は、平家滅亡後のセカンド・ステージを見据えて、身内の義経でさえ切る決断をしたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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