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【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経が頼朝に詫びを入れた腰越状は本物なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
江ノ島から見る片瀬東浜、腰越、小動(こゆるぎ)岬。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第18回では、源義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追い込んだ。その後、義経は頼朝と確執が生じ、弁明すべく腰越状を提出したが、それは本物なのか詳しく掘り下げてみよう。

■源頼朝から勘当された源義経

 元暦2年(1185)3月24日、源義経は壇ノ浦で平家を滅亡に追い込んだ。この吉報はただちに鎌倉の源頼朝へももたらされたが、それは決して喜ばしいことばかりではなかった。

 同年4月21日、梶原景時は戦勝の一報を頼朝に伝えた際、勝因を数々の奇瑞、そして将兵の協力に求めた。一方、義経に関しては、その身勝手な振る舞いを強く非難した。

 同年5月4日、頼朝は景時に書状を送った。その内容は非常に衝撃的なもので、今後は義経の指示に従わなくてもいいこと、そして義経を勘当することを伝えたものだった。

 ここに至るまで、義経は頼朝に無断で任官するなど、やりたいほうだった。景時の報告を聞いた頼朝は、いくら弟とはいえ、このまま放置してはのちの禍根になると考えたのである。

 一方の義経は壇ノ浦から京都に帰還し、平宗盛ら捕縛した面々を連行した。おそらく義経は、兄の頼朝もたいそう喜んでいるはずと思ったに違いない。しかし、頼朝の心は、すでに義経から離れていた。

 頼朝の本心を知った義経は驚愕し、ただちに使者を鎌倉に遣わし弁明した。その際、義経は起請文を捧げたが、もはや頼朝の心を動かすことはできなかった。

■腰越状とは

 義経は宗盛・清宗父子を連れ、急遽、鎌倉へ向かうことにした。同年5月15日、義経は明日(16日)、鎌倉に入る旨を頼朝に伝えたが、「待つように」との指示があるだけだった。

 その際、義経が滞在したのが腰越(神奈川県鎌倉市)にあった満福寺である。今も同寺には、弁慶が書いたと伝わる腰越状の写しが残っている。

 しかし、何日待っても頼朝からの連絡はなく、それは1週間を過ぎても同じだった。しびれを切らした義経は、自ら筆を執って頼朝に弁明した。これが腰越状と称されるものである。腰越状は、大江広元を通じて頼朝に披露された。

 腰越状は、『吾妻鏡』、『義経記』に記載されている。内容は、頼朝の仕打ち(義経を勘当したこと)を嘆き、兄弟の情を切々と訴えて、許しを乞うたものである。大変な長文であり、義経の許しを求める心情が詳しく書かれている。

 腰越状は原本が残っているわけではなく、古来、その内容については疑義が提示されてきた。文面が当時のものとしては疑わしく、『吾妻鏡』を編纂した人物の捏造、あるいは偽作説が有力である。

 結局、頼朝は義経を許すことなく、義経は無念の思いを抱きながら帰京した。このときの義経の心中は知る由もないが、その後、義経は頼朝との関係を断ったのである。

■むすび

 同年6月9日、後ろ髪を引かれる思いで、義経は鎌倉をあとにした。義経が頼るべきは、後白河法皇しかいなかった。その後の義経には、地獄のような日々が待ち構えていたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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