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【深読み「鎌倉殿の13人」】壇ノ浦の戦いで、源義経が見せた八艘飛びと平家滅亡の真相

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
壇ノ浦の戦いで、平家は滅亡した。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第18回では、源義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追い込んだ。その際、義経が見せた八艘飛びと平家滅亡の真相について、詳しく掘り下げてみよう。

■落日の平家

 元暦2年(1185)3月24日、壇ノ浦の戦いで源義経は平家を滅亡に追い込んだ。これまで、義経軍が勝ったのは、潮の流れの変化に求められてきたが、それは疑わしいと指摘されている。

 戦いが終盤になると、義経軍の猛攻により、平家軍が壊滅的な状況に陥った。平家の総大将だった平知盛は、建礼門院(清盛の娘、安徳天皇の母)の船に乗り移り、船内を掃き清めた。もはや勝ち目がないと悟ったのだろう。

 船に乗っていた女官らは知盛に戦況を尋ねるが、知盛は「これから珍しい東男(義経)をお目にかける(義経が攻めてくる)」と言うだけだった。この言葉を聞いた二位の尼(清盛の妻)は、平家の滅亡を悟ったという。

 二位の尼が三種の神器の内の宝剣と神璽を携えると、幼い安徳天皇がどこへ連れてゆくのかと尋ねた。すると、二位の尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と言い、安徳天皇とともに入水した。その後、建礼門院以下、女官たちも次々と海に身を投げた。

 やがて、平家一門の武将も覚悟を決め、平教盛、経盛、資盛、有盛、行盛らが次々と海に身を投じた。平家を率いた宗盛も子の清宗とともに海に飛び込んだが、命が惜しくなって泳いでいた。結局、宗盛・清宗父子は、泳いでいるところを義経軍に捕縛されたのである。

■義経の八艘飛び

 とはいえ、平教経だけは違っていた。剛の者として知られていた教経は、一人気を吐き、義経配下の武将を次々と打ち倒した。これを見た知盛は、「もう勝敗は決しているのだから、これ以上罪を作ってはならない」と諭したほどだ。

 教経は「それならば」ということで、ターゲットを義経に定めた。どうせ死ぬのならば、敵の大将である義経を討ち取って、無念の思いを晴らそうとしたのだろう。

 教経は義経の乗った船に飛び移り、組み伏せようとした。すると、小男だった義経はさっと身をかわし、そのまま船から船へと飛び移り、八艘先の船まで行ってしまった。これが、義経の八艘飛びである。もはや教経には、なす術がなかった。

 すると、教経に義経軍の2人の大男が戦いを挑んできた。教経は1人を海に蹴り落とすと、そのままもう1人を抱きかかえて海に飛び込んだのである。教経の凄絶な最期は、人々の記憶に刻み込まれた。

 総大将の知盛は「見るべきものは、すべて見た」と言い残し、海上に浮かび上がらないよう鎧を2領着ると、平家長とともに海に沈んだのである。戦いが終結したのは、おおむね正午から16時ころにかけてと伝わる。

■むすび

 以上の記述は『平家物語』によるが、同書は文学作品なので、多少の脚色は止む得ないだろう。というよりも、その高い文学性こそが「中世文学の最高峰」といわれる所以である。

 たとえば、宗盛・清宗父子が命惜しさで泳ぎ回っていたというのは、2人の愚人ぶりを強調するためだろう。義経が重い鎧を着たまま、ピョンピョン船を飛んでいったというのも疑わしい。

 義経の大活躍、平家の最期はやや脚色が過ぎるが、平家が滅亡したのは事実である。しかし、頼朝は義経を評価することなく、2人の関係は決裂したのである。この点は、追って取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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