【戦国こぼれ話】大坂夏の陣で戦死した真田信繁、自害した豊臣秀頼は、生き延びていたのか
407年前の今日(5月8日)は、大坂夏の陣で豊臣秀頼が自害した日である。ところで、真田信繁と秀頼は死なずに、生き延びたといわれている。この点を考えることにしよう。
2人とも死んだのは確実だったが、「生きている」という噂も実しやかに流れた。秀頼と信繁は、薩摩あるいは琉球に逃れたという噂が流布していた(『リチャード・コックス日記』)。
当時、京童部は「花の様なる秀頼様を 鬼のやう成る真田が連れて 退きものいたよ加護島へ」と歌っていた。文中の「真田」は「信繁」、「加護島」は「鹿児島」を意味する。
鬼のような体つきの信繁が花のように美しい秀頼を連れて、鹿児島に脱出したという意になる。ところが、信繁は白髪頭で歯が抜けており、秀頼はかなり大柄であったというので、およそ実態とは掛け離れていたといえよう。
谷山村(鹿児島市)には、秀頼の墓があったという(『採要録』)。この村には秀頼の子孫と称する「本木下」と「脇木下」(木下は、かつて秀吉が名乗っていた姓)の2家があり、それぞれが家系図を所蔵していた。系図には「豊臣右大臣(=秀頼)」と書かれており、人には決して見せなかったという。
元和年間の初頭、この地に謎の牢人が住み着き、国主(=島津氏)から居宅が与えられ、相応の金銭が与えられた。この牢人は酒好きで、酔ってはいつも意味不明なことを述べ、遊んでばかりいた。疲れると路上で寝たりしていたので、「酔人の俗言」とあだ名された。
国主は牢人が何かトラブルを起こしても、疎略な扱いをしないよう命じたので、誰も相手にしなかった。牢人は中年になって谷山で没したが、やがて牢人は秀頼だったと噂され、その容姿は面長で愚かに見えたという。
浄門ヶ嶽(南九州市)の麓にも、いずこからか山伏が来て住んだという話がある。人々から恐れられた山伏は、信繁であったという。つまり、信繁と秀頼の2人は、薩摩で生き長らえたということになろう。
木村重成も薩摩へ逃れ、加治木浦(姶良市)で有岡半右衛門と名を変えると、谷山(秀頼と称する人物の居所)をたびたび訪問したという。3人はあるとき、夜中のうちに鹿児島を往来したとの逸話がある。
『採要録』には「この話は分明ではないが、地元の人が語る言葉を記しおくものである。信じるわけではないが、捨て置くものでもない。のちの人の考証に委ねるべきであろう」と書かれている。やはり単なる逸話なのだろう。
信繁が生存していたという逸話は、和歌山県にもある。高野山の麓の橋本(橋本市)に住む奈良屋角左衛門は、九度山の信繁を訪ね囲碁の相手をしていた。信繁は大坂城に赴く際、角左衛門に碁盤と碁石を与えた。
大坂落城後の春、信繁の馬の口が角左衛門のもとやって来て、信繁が無事であるという伝言を伝えた。角左衛門は、信繁がどこに住んでいるのか尋ねたが、信繁の意向もあり、知ることができなかった。
以降の5年間、年に1回は信繁の馬の口が来て、角左衛門に信繁の伝言を伝えたが、6年目には来なくなった。信繁が亡くなったためか、信繁の馬の口が亡くなったためか不明であるという。
信繁の代わりの者が、九度山周辺にあらわれるエピソードはほかにもある。『久土山比工の物語』によると、元和2年(1616)正月、どこからともなく侍が九度山にやって来て、昌幸の墓でお参りをしていた。
下山した侍は、信繁の旧縁の家で泊まってから帰ったという。その後、侍は9年間にわたりお参りに来たが、10年目からは来なくなった。侍は、信繁公の代参と伝わっている。
『古留書』には、真田家の家臣・玉川氏の配下の者が、伊勢へ毎年代参したというエピソードを載せる。話は先述のものとほぼ同じで、信繁はどこかで生きているが、それは明らかにされない。代参者が来なくなったのは、代参者が亡くなったか、信繁が亡くなったかという結論である。
こうした話が伝わるのは、人々の間に「信繁に生きていて欲しい」あるいは「捲土重来して徳川家康を討ってほしい」という願望があったからだろう。人々にとって信繁は、再登場が熱望される英雄だったのだ。