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【深読み「鎌倉殿の13人」】大姫も涙! 人質となった木曽義仲の子・義高の最期

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義高が討ち取られ、大姫が病に伏したので、北条政子は怒り狂った。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第16回では、木曽義仲が自害して果てた。そして、その子・義高にも最期が訪れたのだが、その点を詳しく掘り下げてみよう。

■木曽義仲の死

 寿永3年(1184)1月20日、木曽義仲は源義経、同範頼に敗れ、無念の最期を遂げた。しかし、これで木曽一族が滅亡したのではなく、鎌倉の源頼朝のもとには、義仲の子の義高が送り込まれていた。義高は単なる人質ではなく、大姫の婚約者でもあった。

 義仲が討たれた以上、義高に累が及ぶのは時間の問題だったが、即座に義高が討たれたわけではなかった。とはいえ、徐々に義高には危機が迫っていた。

■義高の出奔

 同年4月21日、ついに頼朝は義高を討とうと考えた。義仲は朝敵だったので、子の義高を生かすわけにはいかなかったのだ。それを知った女房は、大姫にそのことを密かに伝えた。そこで、義高はいろいろと考え、女房の姿に身をやつして出奔したのである。

 その際、義高と同年齢だった海野幸氏は、義高の居所で朝から晩まで一人で双六に興じ、義高が逃げる時間稼ぎをした。頼朝に仕える者たちも、平静を装って協力した。しかし、夜になって、すべてのことが露見したのである。

 怒り狂った頼朝は、ただちに幸氏を拘禁した。そして、堀親氏に義高を討つように命じたのである。これを聞いた大姫は大変驚き、魂が抜けたような状態になったと伝わる。義高が討たれるのは確実だったので、いたしかたないだろう。

■義高死す

 同年4月26日、堀親次の郎従の藤内光澄が鎌倉に戻り、義高を入間河原(埼玉県入間市)で討ったと報告した。どのような最期だったのかは伝わっていない。このことは秘密にされていたが、やがて大姫にも伝わった。

 義高の死を知った大姫は、悲嘆に暮れて、食事も水も喉を通らないようなありさまだった。婚約者が殺害されたのだから、いたしかたないだろう。大姫の様子を見た母の北条政子は心を痛め、それは殿中に仕える男女も同じだった。

 同年5月1日、義高与党が盤踞する信濃、甲斐において、挙兵の噂があった。いまだ義仲や義高を支持する勢力が残っていたのだ。

 そこで、頼朝は足利義兼、小笠原長清のほか御家人を甲斐に向かわせ、小山氏、宇都宮氏、比企氏、河越氏らを信濃に向かわせ、謀反人を討たせたのである。

 5月10日には、諸国の軍勢が甲斐、信濃に送り込まれたという。これにより、木曽一族の残党は一掃されたのである。 

■むすび

 義高の討伐については、後日譚がある。義高の死後、大姫は病に伏して、日に日にやつれていった。その焦燥ぶりは、目も当てられない状況だった。

 政子は頼朝に対し、大姫が病になったのは配慮が足りず、討ち取った男のせいだと怒り狂った。義高を討つなら、事前に相談してほしかったということだが、あまりに身勝手である。

 その結果、藤内光澄は討ち取られ、その首は晒された。光澄は義高を討つよう命じられたので、実行したに過ぎなかったが、とんだとばっちりを受けたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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