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【深読み「鎌倉殿の13人」】激闘!一ノ谷! 平敦盛の最期と熊谷直実のその後

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
熊谷直実鳩(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第16回では、一ノ谷の戦いで平家が敗北したが、平敦盛と熊谷直実の逸話は取り上げられていなかった。その背景を詳しく掘り下げてみよう。

 嘉応元年(1169)、平敦盛は経盛(清盛の弟)の子として誕生した。敦盛は笛の名手として知られており、祖父の忠盛が鳥羽上皇から与えられた「小枝(または青葉)」というを笛を所持していた。

 寿永2年(1183)7月、木曽義仲が入京すると、平家一門は都落ちした。もちろん、一行のなかには敦盛の姿もあった。平家一門が最終的に陣を置いたのは、摂津の一ノ谷(兵庫県神戸市)だった。

 ところが、一ノ谷は源義経の鵯越の逆落としによって奇襲攻撃を受け、そこに源範頼の軍勢が駆け付けた。もはや平家には勝ち目はなく、我先にと船に乗って逃げようとした。

 敦盛も馬に乗って海に近づき、船で逃走しようと考えた。そのとき、背後から「敵に後ろを見せるのは卑怯である」と声を掛け、戻るよう促したのが熊谷直実である。直実は軍功を挙げるため、若武者の敦盛を呼び止めたのである。

 直実は、永治元年(1141)に誕生した。武蔵国大里郡熊谷郷(埼玉県熊谷市)を本拠とする武士である。父が早く亡くなったので、直実は母方の伯父の久下直光に養育された。直実は平家に属していたが、治承4年(1180)の石橋山の戦い後、源頼朝の配下となった。

 敦盛が呼び掛けに応じて引き返すと、たちまち二人は組み打ちとなった。やがて敦盛は力尽きて、剛力の直実に組み伏せられた。直実は即座に敦盛の首を取ろうとしたが、我が子と同じ年頃であることに気付き、ためらった。

 直実は敦盛の名を聞き、一命を助けようとした。しかし、敦盛は決して名乗ることなく、「首を取るように」と答えた。直実は涙をこらえ、敦盛の首を取ったと伝わっている。仮に敦盛を逃したとしても、きっと落ち延びるのは不可能と考え、直実は敦盛を討ったという。

 その後の首実検により、直実が討ったのは敦盛とわかった。敦盛の笛は、父の経盛のもとに送られたという。このことがきっかけとなり、直実は人生の無常を悟り、出家への思いが強くなったという。

■むすび

 その後の直実は、伯父の久下直光と所領の領有権を争うなどし、建久4年(1193)頃に出家した。直実は法然の弟子となり、法力房蓮生と名乗ったのである。

 直実が亡くなったのは、建永2年(1207)9月4日のことである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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