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【深読み「鎌倉殿の13人」】激闘!宇治川の戦い!なぜ木曽義仲は源義経に敗れたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義経は、宇治川の戦いで木曽義仲に勝利した。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第16回では、木曽義仲が宇治川の戦いで源義経に敗れる予告だった。その戦いぶりはどうだったのか、詳しく掘り下げてみよう。

■士気が下がる木曽義仲軍

 木曽義仲は入洛以降、たび重なる不祥事(将兵の乱暴狼藉など)で、大いに評判を落とした。ありていに言えば、朝廷以下、都の人々は義仲を見捨てたのである。

 義仲はすっかり迷走し、後白河法皇と北陸に逃れようとしたり、それが失敗すると後白河を法住殿に幽閉したりしたので、ますます京都の人々の心は離れていった。

 ついに義仲は自ら征夷大将軍になったのだから、かなり暴走していた。もはや義仲には明確な目的も作戦もなかったのだから、源頼朝に太刀打ちできるわけがなかった。

 こうして義仲が失策を重ねている間、源義経、同範頼の率いる大軍勢は義仲を討伐すべく、着実に京都に進軍していたのである。

■勢多、宇治川の戦い

 寿永3年(1184)1月19日、ついに義仲は義経、範頼と雌雄を決することとなった。勢多(瀬田:滋賀県大津市)に向かった大手の範頼軍の軍勢は3万5000、宇治(京都府宇治市)に向かった搦手の義経軍の軍勢は2万5000といわれている(『平家物語』)。

 対する義仲軍は、勢多を守る今井兼平の軍勢は約500,宇治を守る根井行親、楯親忠の軍勢は約300だったので、その差は歴然としていた。以下、宇治川の戦いに焦点を絞ることにしよう。

 義仲軍が取った作戦は、あらかじめ宇治川の橋を落とすものだった。宇治川は流れが急だったので、いかに義経軍とはいえ、渡河が困難だと考えたのだろう。

■予想外の展開

 しかし、弓馬に優れた義経軍は、予想外の力を発揮した。義仲軍の矢が雨のように降り注ぐ中、佐々木高綱と梶原景季が先陣争いを演じ、見事に渡河に成功したのである。

 高綱は頼朝から下賜された名馬「生唼(池月)」に乗ると、景季に「馬の腹帯が緩んでいるから締め直したほうがいい」と助言した。これが親切心なのか否かは不明である。

 景季は「落馬しては大変だ」と思い、馬の腹帯を締め直していると、その隙をついて高綱が先に川に入った。2人は先陣争いを演じたが、先に高綱が川を渡り切ったのである。

 2人の先陣争いは、大いに義経軍の士気を高めた。あとから軍勢が続いたのである。

■むすび

 高綱と景季の活躍により、義仲軍は蹴散らされた。しょせんは多勢に無勢である。士気が低下していた義仲軍は、散り散りになって逃げだしたといわれている。義仲の求心性が失われていたのが敗因だろう。

 こうして義経軍が京都に攻め込むと、義仲は後白河とともに西国に落ち延びようとしたが、失敗。義経が後白河の身柄を確保した。窮地に陥った義仲は勢多に向かい、今井兼平と合流したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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