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【深読み「鎌倉殿の13人」】木曽義仲が頼りにした北陸宮とは、いかなる人物だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
木曽義仲が頼りにした北陸宮とは?(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、木曽義仲が頼りにした北陸宮が出てこなかった。大変重要な人物なので、以下、詳しく掘り下げてみよう。

■北陸宮は以仁王の遺児

 永万元年(1165)5月、北陸宮(ほくろくのみや)は以仁王の子として誕生した。その幼少期については、詳しい史料が残っているわけではない。

 北陸宮に運命の転機が訪れたのは、治承4年(1180)のことである。父の以仁王は「打倒平家」の令旨を各地に発したが、自らは平家との戦いに敗れ、あっけなく戦死してしまった。

 父を討たれた北陸宮は、剃髪して東国へと落ち延びた。その後、以仁王の乳母夫だった藤原重秀とともに、北陸道へ逃避行したのである。まさしく、命懸けだった。

 やがて、風向きは変わっていった。同年9月、以仁王の令旨を受けた木曽義仲が信濃で挙兵し、瞬く間に北陸道の平家の勢力を一掃した。

 寿永元年(1182)8月、義仲は越中の豪族・宮崎太郎の屋敷に北陸宮を迎えるべく、御所を造作した。そして、北陸宮の元服を執り行ったのである。

 むろん、義仲が北陸宮を迎えたのには理由があった。平家追討で京都に入る際、天皇家の系譜を引く北陸宮を推戴することで、正統性を誇示しようと考えたからだった。

■平家の都落ちと北陸宮

 同年7月、義仲の軍勢の入洛を恐れた平家一門は、都落ちして西国に逃れた。ところが、このとき義仲は北陸宮を帯同したのではなく、その姿は加賀国にあったといわれている。

 平家の都落ちにより、安徳天皇が一緒に連れ去られたので、新しい天皇を選ぶ必要が生じた。義仲は自らの後ろ盾とすべく、北陸宮を新天皇に強く推した。義仲にすれば、強力なバックボーンがどうしても欲しかった。

 しかし、卜占を行った結果、後白河法皇は四ノ宮(後鳥羽天皇)を次期天皇に据えることを決定した。これにより、義仲の目論見はもろくも崩れ去った。北陸宮をめぐる一件は、義仲と後白河の対立の要因の一つとなった。

 次期天皇の一件だけでなく、義仲配下の将兵の都での横暴、あるいは義仲自身の非常識さが露見し、後白河は義仲と距離を置くことになった。その後、北陸宮は後白河とともに法住殿にあったといわれている。

■むすび

 同年11月18日は、義仲が後白河を法住殿へ幽閉するという暴挙に出た前日である。この日、北陸宮は法住殿から出奔し、いずこかへと逐電したという。その後の行方は不明である。いずれにしても、義仲は北陸宮を新天皇に擁立できず、起死回生の策が失敗したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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