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【深読み「鎌倉殿の13人」】進退窮まった木曽義仲が後白河法皇をクーデターで幽閉した深刻な理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
進退窮まった木曽義仲は、後白河法皇をクーデターで幽閉した。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第15回では、進退窮まった木曽義仲が後白河法皇を幽閉するシーンがあった。なぜ義仲は暴挙に出たのか、深く掘り下げてみよう。

■進退窮まった木曽義仲

 寿永2年(1183)、木曽義仲は晴れて念願の入京を果たした。しかし、飢饉による凶作で、配下の将兵が暴徒と化し、食糧を強奪するなどしたので、その評判はがた落ちになった。

 一方で、源頼朝が後白河法皇に積極的にアプローチを仕掛け、その評価を高めていた。義仲は平家勢力のいる播磨、備前、備中に攻め込み挽回しようとしたが、無残な敗北を喫した。こうして朝廷や寺社どころか、ともに上洛した源氏の諸将の心も義仲から離れていった。

 脅威となったのは、頼朝の命を受けた義経の上洛である。同年閏10月22日頃には、伊勢国まで進軍していた。これにより義仲はピンチに陥り、状況はかなり厳しくなった。

 ここから義仲の迷走がはじまった。ある者は平家追討を成功させるため、後白河を播磨に臨幸させようと画策したが、この策は誰もが受け入れるところがなかった。

 義仲自身は後白河を本拠である北陸に迎えようとしたが、叔父の源行家らが猛反対したので、実現には至らなかった。後白河自身も望まなかったに違いない。

 同じ頃、西国に逃れた平家は、九州から四国に侵攻し、その討伐が容易ならないという情報が京都にもたらされた。しかし、義仲はこの情報を否定したので、公家らは義仲が平家と通じているのではないかと疑った。

 義仲は叔父の志田義広を平家の追討使にしてはどうかと進言したが、これも朝廷から拒否された。そのうち行家も義仲と距離を置き、平家討伐の名目で播磨へ下向した。こうして義仲は四面楚歌となり、すっかり孤立したのである。

■クーデターの決行

 同年11月、義経が近江まで進軍したとの情報が伝わった。京都は緊張感で包まれ、やがて義仲が御所を襲撃するのではないかという風聞が流れた。

 後白河の義仲に対する態度は、非常に強硬だった。後白河が義仲に要求した要点は、次の二つになろう。

①義仲が平家討伐のため、西海に下向する。

②義仲が義経の軍勢を防ぐため、東上する。

 後白河は義仲にいずれかを選ぶように命じたが、それは京都が戦場になることを避けるためだった。義仲はどっちを選んでも先が見えないので、完全に思考能力を失ってしまった。

 同年11月19日、ついに義仲はクーデターを決行し、後白河の法住殿を包囲すると、放火して百余人を殺害した。そして、後白河を捕縛すると、五条東洞院の屋敷に幽閉したのである。

 それだけでなく、法皇の近臣だった藤原朝方らのほか、摂政の近衛基通を辞めさせ、自身の妻の兄の松殿師房を摂政の地位に就けた。そして、義仲は従四位下、征夷大将軍になったのである。これは、大変な暴挙だった。

■むすび

 後白河は義仲の暴挙に屈し、平家の館を与えるなどした。本意ではなく、一時的な妥協である。一方で、この事実を義経に知らせ、上洛を早めさせようとした。義仲は播磨室泊に進出していた平家に対し、共同作戦を提案したが、これは拒否されたという。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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