【深読み「鎌倉殿の13人」】木曽義仲がついに後白河法皇と決裂! 源頼朝の勝利の方程式
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第14回では、木曽義仲が後白河法皇と決裂する場面が描かれていた。二人に何があったのか、深く掘り下げてみよう。
■木曽義仲の強い疑念
備中で打ち負かされた義仲は、這う這うの体で帰洛したが、京都市中の人々から歓迎されていなかったのは明らかだった。また、京都で暴動が起きるのかと嫌気が差していたのである。
義仲が出陣している間、源頼朝は後白河法皇に急接近し、「寿永2年の宣旨」を獲得して東国の経営権を確保していた。こうした動きもあり、義仲は徐々に後白河に疑心暗鬼の念を抱き、強い不満をぶつけたのである。
その際、義仲が要求したのは、頼朝の追討を許可する宣旨だった。義仲は官軍として、認められたかったのである。義仲の後白河に対する不満は、次の二つの点にあった。
①義仲の反対を押し切って、頼朝の上洛を要請したこと。
②頼朝に東山道、東海道の支配を認める宣旨を出したこと。
「この状、義仲生涯の遺恨たり」(『玉葉』)と書かれているとおり、義仲の怒りは頂点に達していた。義仲の立場を考慮すると、いたしかたないといえよう。
■義仲の考え
寿永2年の宣旨は、頼朝に東山道、東海道の支配を認めたものだったが、義仲の支配していた北陸道もやがて頼朝の手にわたる可能性があった。義仲は経済基盤を失ってしまうので、それを何としても阻止する必要があった。
また、義仲が京都での信頼を失い、頼朝に北陸の支配権を奪われると、すっかり退路を断たれることになってしまう。行き場がなくなってしまうのだ。義仲は、万事休すの過酷な状況に陥っていた。
裏返して言えば、義仲は京都における政治の主導権をただちに掌握し、同時に北陸道の支配権を維持する必要があった。もはや頼朝との対立は明確なので、対抗措置を取る必要があったのだ。
そのためには、もはや心が離れたとはいえ、後白河に強硬な態度に出ることが必要だった。互いに激しく対立することで、いよいよ距離を置くようになったのである。
■むすび
こうして同年閏10月、頼朝は弟の義経を代官に任じ、数万の軍勢を与え、京都に進発させた。目的は、義仲を討つことだった。同行したのは、中原親能である。もはや義経軍は宣旨を得て、官軍の様相を呈していた。
一方の義仲も敵は平家ではなく、もはや頼朝に変わっていた。義仲は頼朝に対抗すべく、後白河を奉じて東国に出陣する案を提出したが、これは叔父の源行家らに反対された。興福寺には頼朝追討の宣旨が下されたが、興福寺はついに動かなかった。
こうして義仲は行家ら源氏の諸将にも見放され、孤立無援の状態になった。そして、最期を迎えるのであるが、その点は改めて取り上げることにしよう。