【深読み「鎌倉殿の13人」】木曽義仲が備中で大苦戦! 源義経が上洛した裏事情
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第14回では、木曽義仲が備中で大苦戦し、源義経が上洛する場面が描かれていた。いったい何があったのか、深く掘り下げてみよう。
■悩む木曽義仲
寿永3年(1183)7月、木曽義仲は念願の入京を果たしたが、京都は食糧難だったので、配下の将兵が略奪をするなどし、徐々に京都の人々から疎んじられるようになった。一方、源頼朝は後白河法皇に急接近し、東国の行政権の確保に成功していた。
義仲は入京後ほどなくして、後白河と対立していった。義仲が京都で主導権を握るには、後白河を屈服させるか、協調するか、いずれかの選択肢しかなかった。
一方、頼朝は上洛を準備している様子がうかがえ、ともに上洛した叔父の源行家でさえ、頼朝に結託するかもしれないという疑念が義仲に沸いてきた。
義仲は後白河から平家の追討を命じられていたが、十分に体制が整わなかったので、いまだに実行に移していなかった。そこには、頼朝に対する脅威があったに違いない。
■播磨、備中、備前への進発
同年10月、義仲は意を決して、播磨方面へと出陣した。その際、もし頼朝が上洛した場合は、ただちに北陸方面に逃走し、上洛しなければ平家を討伐する計画だったといわれている。
その後、義仲は播磨を経て、備前そして備中へ侵攻した。しかし、義仲には往時の力がなく、備前の敵対勢力の陣営を焼き払っただけに止まり、在地武士との戦いには敗れた。その結果、平家が勢いを盛り返し、東上するとの噂が流れたのである。
同年閏10月、京都では頼朝が上洛するとの風聞、そして敗北を喫した義仲が引き返してくるとの情報が交錯し、大混乱に陥っていた。義仲は頼朝に備えるための帰京だったというが、歓迎されなかったのである。
しばらくして「義仲、帰洛する」との確報が京都にもたらされると、朝廷は周章狼狽し、あたかも戦場にいるようなありさまだったという。また、後白河が逐電するとの噂が流れた。もはや義仲は不要だったのだ。
■小勢だった義仲の軍勢
京都の人々は義仲が戻ってくると聞くと、ただちに家財を持ち出したり、妻子を避難させるなどの行動をとった。また、京都が戦場になると、人々は恐怖したのである。
同年閏10月15日、件の義仲が兵を率いて帰洛した。しかし、その軍勢は思ったよりも小勢だったという。平家との戦いのなかで将兵が戦死したり、あるいは逃亡したりして、数が減ったのだろう。
そうした状況を察したのか、ともに上洛を果たした叔父の源行家ら源氏の諸将も、徐々に義仲と距離を置いたのである。もはや義仲は、まったくの孤立無援の状態になったのだ。
■むすび
その後、さらに義仲と法皇の関係は崩れ、これを見通したかのように、頼朝は弟の義経を上洛させた。この辺りの事情については、改めて取り上げることにしよう。