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【深読み「鎌倉殿の13人」】平家滅亡の元凶! 小泉孝太郎さん演じる平宗盛の情けない逸話3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平宗盛は泳ぎが得意で、海に突き落とされてもすいすい泳いだ。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、あまり目立たない平宗盛。宗盛はあまりに情けない人物で、平家滅亡の元凶といわれているが、その点を深く掘り下げてみよう。

■平宗盛の評価

 平宗盛(1147~1185)は、清盛の三男である。治承5年(1181)閏2月に清盛が死去すると、すでに嫡男の重盛も亡くなっていたので、平家の家督は宗盛のもとに転がり込んだ。

 『平家物語』は宗盛の思い上がった態度、傲慢な性格を描く一方、その無能ぶりを盛んに強調する。また、宗盛が妻を亡くしたとき、官職を返上して遺児を自ら養育するなど、妻子への思いやりを取り上げる。

 それは、子の清宗に対しても同じで、壇ノ浦合戦後に宗盛が処刑される際、すでに清宗が斬られたのか心配したという。とはいえ、『平家物語』はあくまで文学作品なので、どこまで正しく伝えているのかわからない。

 宗盛は平家滅亡の元凶といわれ、その情けないエピソードがいくつか残っている。今回は、そのうち3つを取り上げることにしよう。

1 他人の名馬を奪う

 宗盛は、源仲綱(頼政の子)の愛馬「木下(このした)」を所望した。仲綱は泣く泣く貸し与えたが、当時、平家は全盛期だったので、宗盛は権勢を笠に着て返却しなかった。

 それどころか、宗盛は「木下(このした)」の名を「仲綱」に変え、おまけに「仲綱」の焼印を馬の尻に押したという。仲綱にとっては、屈辱的なことだった。こうした出来事も、頼政が以仁王の謀反に加担する要因の一つになったという。

2 潔く死ぬ勇気もなし

 元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦いにおいて、勝ち目がないと悟った平家一門の面々は、潔く戦って討ち死にするか、次々と海に飛び込み命を絶った。

 しかし、宗盛は戦うだけの根性もなく、海に飛び込むだけの勇気もなく、ただおろおろとするばかりだった。すると、その状況を見かねた平家の武将の一人が、宗盛をいきなり海に突き落とした。

 これで宗盛もおしまいかと思いきや、彼は泳ぎの達人だったので、すいすいと泳ぐありさまだった。その後、宗盛は源氏の将兵に助けられ、捕縛されたのである。

3 最後まで命乞い

 同年4月、宗盛は子の清宗とともに鎌倉へ連行された。すでに宗盛は平家の棟梁として、死罪が決定していたという。同年5月、鎌倉に入った宗盛は、ついに源頼朝の前に引きずり出された。

 宗盛は平家の棟梁らしからぬ態度で、終始、頼朝に命乞いをした。それを見ていた御家人たちは、あまりに情けない宗盛の態度に罵声を浴びせ、嘲笑したと伝わる。そして同年6月、宗盛はこの清宗らとともに斬首され、ここに平家は滅亡したのである。

■むすび

 宗盛の情けないエピソードを3つ紹介したが、先述のとおりあくまで『平家物語』の記述なので、ことさら貶めた印象は拭えない。いずれにしても、宗盛は平家滅亡の汚名を着せられ、無残な最期を遂げたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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