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【深読み「鎌倉殿の13人」】期待外れだった木曽義仲の入京。その横暴の数々

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
木曽義仲の将兵が暴挙におよんだのは、食糧不足だった。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第14回では、木曽義仲が入京を果たしたものの、将兵の暴挙が描かれていた。なぜ将兵が暴挙に及んだのか、深く掘り下げてみよう。

■木曽義仲の入京

 寿永2年(1183)7月、木曽義仲は叔父の源行家らとともに入京を果たした。長らく京都を支配した平家一門は、安徳天皇を連れ出して都落ちした。

 後白河法皇や公家をはじめ、京都の人々は義仲の入京を大歓迎した。というのも、たび重なる平家の横暴に辟易としていたからである。義仲への期待は大きかった。

 源頼朝に先んじて入京した義仲も、きっと誇らしかったに違いない。しかし、義仲には前途多難な難題が待ち構えていたのである。

■義仲を待ち構えた困難

 義仲は、多くの軍勢を引き連れて都に入った。これが大問題を引き起きした。というのも、当時は飢饉に伴う凶作で、大軍勢の食事を賄うだけの糧食を準備できなかったからだ。京都への地方からの年貢搬送も中断していた。

 すでに、義仲の入京前に都にいた平家は、糧食の準備に大変苦労していた。結果、統制が困難になった平家の将兵は、畠から食物を無断で刈り取り、あるいは人々から食糧を強奪するなどし、もはやコントロールが利かなくなっていた。これも、平家が嫌われた原因である。

 そのような混乱した状況のなかで、義仲は都に入ったのである。食糧事情は好転していなかったので、義仲配下の将兵が平家の将兵と同じく、食糧の強奪に出るという、暴挙に出るのは時間の問題だった。

■やりたい放題の義仲軍

 義仲が糧食の確保に期待できたのは、北陸道と山陰道だけだった。東海、東山両道は源頼朝に支配されており、西国方面は平家が押さえていた。しかし、いずれにしても飢饉により糧食の確保は期待できず、腹を空かせた義仲の将兵は荒れ狂うしかなかった。

 義仲と行家の将兵は、畿内近国の作物を無断で刈り取るなど、甚だしい暴挙に出た。たまたま荘園から年貢が京都に運送されると、強奪するありさまだった。さらに、京都の人々が次々と捕らえられるなど、治安も悪化した。

 朝廷は義仲に対して、配下の将兵の強奪を止めさせるよう命じたが、もはや効果はなかった。義仲にさえ、荒れ狂う将兵のコントロールは困難だったのだ。こうして義仲は、朝廷、寺社、京都の人々の人望を失っていったのである。

■頼朝の巧みな作戦

 義仲が朝廷などから支持を失うなか、巧みな政治的戦略で後白河法皇に急接近したのが頼朝だった。頼朝が上洛を匂わせたので、朝廷は大いに期待した。

 一方の義仲は焦るものの、なかなか思い通りにことは運ばなかった。後白河は「日本一の大天狗」と称された策略家であり、義仲を手玉に取ることなどは実に簡単だった。

 後白河は義仲を盛んに挑発し、叔父の行家と離間させようとした。やがて、後白河と義仲の関係は険悪となり、その対立は激化した。京都における義仲の立場は、悪くなる一方だったのである。

■むすび

 こうして義仲は追い詰められ、ついに暴挙に出るのであるが、その点は改めて取り上げることにしよう。義仲は武勇に優れていたが、食糧の確保に苦しんだ。時期が悪かったといえばそれまでだが、運がなかったのも事実だろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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