【深読み「鎌倉殿の13人」】木曽義仲は、都の人々が嘲笑するような田舎者だったのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第14回では、木曽義仲が牛者の後ろから出て笑われるシーンがあった。義仲は呆れるような田舎者だったのか、深く掘り下げてみよう。
■坂東武者は無教養だったのか
当時の東国と言えば、京都に比べると、辺境の地で文化果てる地と考えられていた。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の以前の回で、上総広常が子供のような汚い字で手習いをしていたが、ろくに字も書けないような連中だと思われていた節がある。
しかし、東国はたしかに京都に比較すると、文化的に劣っていたかもしれないが、都市的な場が形成されていたのは事実である。また、和歌を詠む武士もいた。武士=武芸オンリーで、無教養というのは早計にすぎるだろう。
■田舎者に描かれた木曽義仲
大河ドラマのなかでも、木曽義仲は「山猿」と罵られていた。信濃は山深いので、義仲を「山猿」と呼んだのだろうが、あたかも田舎者とみなしたのには深い理由がある。
『平家物語』には、後白河法皇や公家が義仲を「田舎者」として嘲笑した逸話をいくつか挙げている。以下、確認することにしよう。
武骨者だった義仲には、烏帽子と装束が似合っておらず、裾のさばき方などの所作がさまになっていなかった。これを見た公家らは、義仲を「田舎者」と陰で罵った。
義仲は乗馬は得意だったが、牛車に乗ったことがなかった。意地悪な牛飼いは、わざと牛を荒っぽく引いたので、義仲は牛車の中で転げ回った挙句、後ろから牛車を出てしまった。これも、人々の物笑いの種になった。
京都では食事が一日二食だったが、義仲は招いた客人に大盛飯を食わせようとした。しかも食事も食器も粗末だったので、これも嘲笑される原因となった。
義仲は田舎者だったので、公家社会のしきたりや習慣を知らず、「田舎者」と嘲笑われた。義仲に悪意はなかったものの、京都の人は受け入れなかったのである。
■むすび
『源平盛衰記』によると、義仲は目元がきりっとした、色白の美男だったという。しかし、立ち振る舞いが武骨で、弁舌も粗野であり、まったくの田舎者だったと評価する。『平家物語』ではその点をやや誇張して面白かしく描いているが、実際はどうだったのだろうか。
義仲は最初こそ入京を歓迎されたが、やがて将兵らの乱暴狼藉により、人々の心が離れていった。結果、義仲の無作法がことさら強調され、嫌われたもう一つの原因とされたのではないだろうか。