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【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝と木曽義仲の和睦、そして源義高が鎌倉に行った裏事情

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
木曽義仲は子の義高を人質にすることで、源頼朝との戦いを回避した。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の13回では、源頼朝と木曽義仲が和睦し、その条件として源義高が鎌倉に行った。この間の事情について、深く掘り下げてみよう。

■油断ならなかった源義仲

 源頼朝が常に警戒していたのは、木曽義仲だった。義仲を単なる信濃の田舎武者とするわけにはいかなかった。義仲は北陸で平家を打ち破ったのだから、その軍略や政略はまったく侮れなかったのだ。むろん、平家が義仲を恐れていたのは、言うまでもない。

 そんな義仲だったので、頼朝から袖にされた行家、頼朝に敗れた義広という、2人の叔父が頼りにするのも無理からぬところがあった。頼朝は2人の叔父が義仲に急接近したので、義仲が対抗する勢力になることを非常に恐れたのである。

 こうして寿永2年(1183)3月頃、頼朝と義仲の関係は悪化し、一触即発の事態になった。しかし、両者にとって、戦いで雌雄を決することは、決して得策ではなかった。互いに消耗することは、何とか避けたいというのが本心だったに違いない。

 両者の関係が尖鋭化したのには、もちろん理由があった。彼らは打倒平家で挙兵する過程で、多くの豪族を帰伏させて自軍に取り込み、それは同族の源氏も例外ではなかった。

 また、一説によると、武田信光が娘を義仲の子の義高に輿入れさせようとしたが、それは断られてしまった。立腹した信光は、「義仲が平家と組んで頼朝討とうとしている」と頼朝に讒言したといわれている。

 帰伏あるいは同盟関係を結んでいた同じ源氏であっても、主導権を握りたいという本音があった。頼朝と義仲が対立の様相を深めたのは、「我こそは源氏の正統」という意識のあらわれだろう。

■両者の和睦

 先述したとおり、両者には源氏の正統という自負があり対立したが、一方で戦いを避けたいという本音があった。あくまで優先すべきは、第一に打倒平家であり、第二に互いの領国経営だった。そこで、両者は政治的な折衝を重ねた結果、和睦への合意に至った。

 同年3月、義仲は嫡男の義高を鎌倉に送ることで、頼朝と和睦した。もっとも、単なる人質ではなく、将来的に頼朝の娘・大姫と結婚することが条件だった。こうして当時11歳だった義高は、海野幸氏や望月重隆らを伴にして、鎌倉へと下って行ったのである。

 義高は義仲の後継者だったのだから、並々ならぬ決意がうかがえる。頼朝も義仲の意を汲んで、娘の大姫との結婚を前提とした。互いの長男・長女が婚約をしたのだから、その関係が強固になったであろうことは、疑いないところである。

 翌月、平家は平維盛、通盛、知度以下、約4万という大軍を北陸道に送り込んだ。こうして再び、義仲は平家を相手にして戦いを再開したのである。 

■むすび

 このようにして、頼朝と義仲は戦いを回避することに成功した。しかし、その後の義仲は北陸で平家軍を打ち破り、頼朝に先んじて入洛した。このことが新たな確執を産むが、この点はドラマの進行に合わせて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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