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【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経は里とイチャイチャして寝過ごし、信濃に出発できなかったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義経は里とイチャイチャして寝過ごし、信濃に出発できなかった?(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の13回では、源義経が里とイチャイチャして寝過ごし、信濃に出発できないという失態を犯した。これが事実だったのか、深く掘り下げてみよう。

■ドラマの振り返り

 源頼朝の浮気騒動はいったん収まったものの、信濃では木曽義仲が不穏な動きをしていた。それは、義仲が鎌倉に攻め込み、源氏の棟梁の地位を狙うというものだった。

 頼朝は義仲の真意を確かめるべく、北条義時と源範頼(頼朝の弟)を義仲のもとに派遣しようと考えた。その話を聞きつけた源義経は、義時に「自分も連れて行ってほしい」と懇願する。最初、義時は断るが、その熱意にほだされて同行を許可した。

 一方、比企能員は源氏との強い関係を結ぶことを画策し、娘の里と常を義経と範頼に紹介する。範頼は能員の意図を察したのか、丁重に断った。しかし、義経は里に恋心を抱いたようだ。

 信濃への出発前夜、義経と里は小屋で一夜を過ごした。義経はそのまま寝過ごしてしまい、信濃行きに同行し損なうという大失態を演じたのである。

 ところで、この話、実話かと言われたら、そうとはいえない。創作なのは明らかだろう。しかし、義経の妻が里だったのは、事実である。

■義経と里の結婚

 里は、武蔵の豪族・河越重頼の娘である。重頼の妻は、比企尼の次女だった。比企尼は頼朝の乳母だったのだから、比企一族の源氏への強い影響力がうかがえる。一般的に義経の正妻は、「郷御前」で知られているので、以下、「郷御前」で統一しよう。

 実は、郷御前の名前は、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』にたったの3ヵ所しかあらわれない。それは、のち比企氏が反乱を起こし、北条氏に鎮圧されたことと無関係ではないだろう。

 郷御前が初めて『吾妻鏡』に登場するのは、元暦元年(1184)9月なので、ドラマでの演出が創作であるのは明らかだろう。

 このとき、頼朝は河越重頼に対して、娘を上洛中の義経に婿入りするよう命じた。これより以前、義経は朝廷から無断で任官を受けたので、頼朝の不興を蒙っていたのだが、二人の結婚にはどういう意味があったのか。

 そもそも河越氏の一族は、義経の身辺に仕えており、武蔵国内では武蔵国留守所総検校職として絶大な権力を誇っていた。また、先述したとおり、重頼の妻は比企尼の娘である。

 頼朝は義経の無断での任官に不愉快の念を感じていたが、郷御前との結婚は前から決まっていたので、容認せざるを得なかったということになろう。一方で頼朝は、義経の更生を期待していたのかもしれない。

 なお、範頼の妻も比企尼の孫娘であることを申し添えておこう。義経と郷御前との結婚には、比企尼の強い意向が反映されていた可能性もある。乳母は、大きな影響力を持っていた。

■むすび

 義経と郷御前とのイチャイチャ話は、単なる創作に過ぎないが、先んじて両者が知り合っていた可能性はあるかもしれない。ドラマの義経はいささか落ち着きがないが、少しは常識があるまともな人間になってほしいものである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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