【深読み「鎌倉殿の13人」】源平が和睦!? 源頼朝が後白河法皇に行った密奏とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では省略されていたが、源頼朝が後白河法皇に密奏を行い、平家との和睦を模索した。その点を深く掘り下げてみよう。
■源頼朝が後白河法皇に行った密奏
養和元年(1181)7月、源頼朝は後白河法皇に密奏を行った(『玉葉』)。ただ、不思議なことに、この密奏は『吾妻鏡』には記載されていない。その概要を箇条書きにすると、以下のとおりになろう。
(1)頼朝は後白河に謀反の意はなく、その敵(平家)を討つために挙兵したにすぎない。
(2)後白河が平家を討ってはならないとお考えなら、かつてのように源平をともに召し使うべきだ。
(3)その場合、東国は源氏、西国は平家が支配し、朝廷が国司を補任する。
(4)国司が反逆した場合、その討伐は源平に任せること。
そして、頼朝は「源平がともに後白河を助け、その命に忠実であるかご覧いただきたい」と言葉を結ぶ。
頼朝は驚くべきことに、東国と西国に分けて、源平を起用してほしいと後白河に願っているのだ。『吾妻鏡』は、後世にこの妥協案が残るのを恐れたのだろうか。
なお、(1)については、後白河から平家に頼朝追討の宣旨が出されていたので、もっとも重要だった。朝敵であることは、頼朝にとって非常にまずかったのである。
■頼朝が密奏を行った3つの理由
頼朝が密奏を行ったのには、3つの理由が考えられる。第一に、頼朝は打倒平家の兵を挙げたとはいえ、朝廷から賊徒とみなされる可能性があった。とりあえず、逆賊と思われるのを避けるためである。これは、もっとも重要だった。
第二に、頼朝は富士川の戦いで平家に勝ったものの、その討伐は困難であると考えた。そこで、まずは東国の基盤固めをすべく、平家との併存を試みようとした。こちらは一種の妥協案だが、それでも十分に納得できたのである。
第三に、源義仲が信濃から北陸にかけて威勢を伸長し、さらに入洛する勢いだった。頼朝は義仲に先んじて後白河に密奏することで、主導権を握ろうと考えた。義仲と頼朝は同じ源氏とはいえ、この段階ではいまだ敵視していた感がある。
密奏は平家との和睦案であり、仮に実現した場合、頼朝は現状の国家体制のなかで、東国支配を公的に認められることを希望した。一種の妥協案だったのである。
■むすび
後白河は、頼朝の密奏を平宗盛に見せたが、宗盛は頼朝との徹底抗戦を主張して、和睦案を拒否した。頼朝追討の宣旨も撤回されなかった。結局、頼朝の密奏は失敗に終わったのである。とはいえ、頼朝は後白河と接触することで、以後の交渉に余地を残したのである。