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【深読み「鎌倉殿の13人」】平家を打ち破り、北陸を制した木曽義仲の大活躍を確認する

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平家は、木曽義仲の軍勢に圧倒された。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」13回目は、木曽義仲が登場したが、それまでの活躍は省略された。義仲の活躍ぶりについて、深く掘り下げてみよう。

■越後に進出した木曽義仲

 治承5年(1181)、源義仲は信濃から、平家方の城氏が勢力を誇る越後に攻め込もうと画策した。城氏は助永が甲斐、信濃の源氏と戦っていたが、同年2月に亡くなった。

 あとを継いだのが弟の助職である。同年6月、助職は約1万の大軍を率いて、信濃に侵攻した。しかし、敵の抵抗は思ったほどなく、あっという間に信濃を制圧した。

 やがて、義仲が率いる木曽・佐久の軍勢、そして甲斐源氏の一部の軍勢が合流し、城氏に奇襲戦を仕掛けた。城氏の軍勢は長い軍旅で疲労困憊しており、敗北して信濃から撤退した。

 城氏はわずか300余の軍勢で越後に退却したが、残りの軍勢は途中で逃げ去るか、敵に討たれた。そんな城氏を待ち構えていたのは、越後の在地武士らの反逆で、城氏には悲惨な運命が待ち構えていたのだ。

 こうして越後の平家方の勢力が無力化し、越中、加賀、能登の北陸の諸国においても、源氏に呼応する勢力があらわれ、反平家の活動が活発になったのである。

 同年7月、平教盛の知行国だった越前にも、反平家の波が押し寄せた。こうして義仲は反平家の勢力を糾合することに成功し、北陸の諸国に強い影響力を保持したのである。

■失敗した平家の挙兵

 むろん、平家も義仲の動きを黙って見ているわけではなかった。同年8月、平家は平通盛、平経正を北陸追討使に任じ、義仲を討とうとしたのである。

 しかし、平家方が越前国府に入ると、隣の加賀から軍勢が押し寄せ、激しく追討軍に抵抗した。敗れた平家方は敦賀まで撤退し、京都に援軍を要請するような体たらくだった。

 北陸道の反平家の抵抗は頑強で、加賀以北の諸国は命に従うことがなかったという(『玉葉』)。同年9月、平家方は援軍として教経、行盛を送り込んだが、通盛は敦賀から退却した。

 この頃になると、常に敗勢が濃かった平家方は、とても士気が上がらなかったのだろう。以降、大規模な飢饉で兵糧の調達が困難となり、義仲、平家方とも合戦らしい合戦をしなくなった。

 平家方は北陸道に加え、東山道、東海道へ大規模な軍事行動を計画したが、やはり凶作や飢饉の影響により、実行に移すことがなかった。兵糧を調達する課題があったからだ。

■むすび

 同年11月下旬になると、通盛は京都に帰還した。翌年の暮れまで、北陸方面での戦闘は見られなくなった。とはいえ、北陸における平家方の威勢が後退し、義仲が選挙に成功したのは事実である。以降、義仲の存在が大きくクローズ・アップされたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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