【深読み「鎌倉殿の13人」】重厚感、存在感溢れる大江広元とは、いったい何者なのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」12回目では、大江広元が強い存在感を示していた。大江広元とは、いったい何者なのか、その前半生を深く掘り下げてみよう。
■大江広元とは
大江広元は、久安4年(1148)に誕生した。父は中原広季や大江維光ほか諸説(藤原光能など)あり、いずれが実父か養父か判然としない。
一般的には「大江」姓で知られているが、もとは「中原」姓だった。中原から大江に改姓したのは、建保4年(1216)のことである。『吾妻鏡』によると、広元の養父は中原広季だったが、実父の大江氏の衰退を嘆いて、大江姓を名乗ることにしたという。
広元の兄が中原親能である。親能は、源雅頼の家人として在京していた。しかし、治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると、その4ヵ月後には出奔していた。親能は幼い頃に相模で養育され、頼朝とも親しかった。その関係を平家に疑われ、出奔したのである。
広元は下級貴族にすぎず、朝廷で外記を勤めていた。外記とは、太政官少納言のもとで、内記(書記)が作成した詔勅の草案をチェックしたり、奏文を作成したりするほか、行事や儀式の実務を担当する者のことだ。
清原家と中原家は、大外記を担当する家柄だった。広元や親能が下級貴族とはいえ、朝廷の実務に通じていたことは、実に重要なことだったのである。
■広元らが重用された理由
挙兵段階の頼朝は、幕府の萌芽的な組織を作ったとはいえ、まだまだ未熟だった。そこで、必要になったのは、広元や親能が朝廷で培った知恵だった。
広元が鎌倉に下ったのは、寿永2年(1183)7月の平家の都落ち以降とされている。鎌倉に下った広元はその文筆の才能を見込まれ、公文所の別当(長官)に任じられた。
公文所とは、政務や財務のほか、公文書の作成や管理、訴訟に関わる重要な役所だった。広元がその初代別当になったのだから、いかにその手腕を見込まれていたかがわかるだろう。
ほかに公文所の寄人(職員)として加わったのは、親能、二階堂行政、足立遠元、藤原邦通の4人である。親能と行政は下級貴族の出身で、遠元は武家出身、邦通は出自未詳ながら有職故実や文筆に優れていたという。
いかに幕府(あるいはその萌芽的な組織)が武家の集まりとはいえ、政治を行う上では政務、財務、公文書、訴訟に精通する職員が必要だった。
広元や親能は朝廷での身分が低かったかもしれないが、武家政権を発展させていくうえで、必要な人材だった。ゆえに、広元らは頼朝に重用されたのである。
■むすび
広元は武官ではなく文官だったので、やや迫力に欠けるかもしれないが、頼朝を支えた貴重な戦力だった。以後、折に触れて広元を取り上げることにしよう。