【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経だけではなかった。打倒平家の兵を挙げた山本義経と柏木義兼
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、源義経が大活躍だが、実は山本義経と柏木義兼も打倒平家の兵を挙げていた。今回は山本義経と柏木義兼の活躍ぶりについて、深く掘り下げてみよう。
■山本義経と柏木義兼とは
近江源氏といえば、近江国佐々木荘(滋賀県近江八幡市)に本拠を置いた佐々木氏が有名である。源頼朝が打倒平家の兵を挙げると、ただちに佐々木氏は馳せ参じた。しかし、今回取り上げる近江源氏は、山本義経と柏木義兼の二人である。
山本氏は源義光の流れを汲み、近江国山本郷(滋賀県長浜市)を本拠としていた。義経は義定の子として誕生したが、生没年は不詳である。義兼は義経の弟である(生没年不詳)。義兼の本拠は、近江国柏木御厨(滋賀県甲賀市)だった。
安元2年(1176)、義経は平家の讒言によって、延暦寺の僧を殺したとの嫌疑を掛けられ、佐渡国に流罪となった。義経・義兼兄弟が打倒平家の兵を挙げたのは、こうした理由も関係しているだろう。
なお、山本義経は源義経と混同しがちであるが、まったくの別人である。
■義経と義兼の挙兵
治承4年(1180)11月、義経・義兼兄弟は打倒平家の兵を挙げた。義経・義兼兄弟は、平家の藤原景家を勢多(瀬田:滋賀県大津市)で討ち取ると、勢多橋にその首を晒した。景家は以仁王を討った人物でもあるので、まさしく打倒平家の狼煙となった。
義経・義兼兄弟の挙兵は、京都の公家を震撼させた。義経・義兼兄弟は水軍で琵琶湖の湖上交通を掌握すると、北陸方面から搬送される年貢を止めた。さらに、三井寺(滋賀県大津市)まで進攻し、入京は目前だった。京都の公家が恐れるはずだ。
同年12月、平知盛が大将軍として、義経・義兼兄弟を討伐すべく近江国に向かった。いったん義経・義兼兄弟は退却するが、直後に美濃源氏の軍勢が加勢し合流した。しかし、義経・義兼兄弟らの軍勢は、知盛と戦って敗北したのである。
■義経・義兼兄弟の敗北
いったん敗北した義経・義兼兄弟は、延暦寺と協力して三井寺に籠り、平家の本拠である六波羅を夜襲した。しかし、この作戦はあえなく失敗に終わり、平家に反撃された。
義経・義兼兄弟は三井寺から逃亡すると、本拠の山本山城で抵抗し続けたが、知盛らの攻撃で落城した。このとき義兼は討ち取られたとされるが、これは誤報だった。
その後、義経は居城を脱出し東国に下向すると、土肥実平に導かれて源頼朝との対面を果たした。3年後、義経は頼朝のもとを離れ、木曽義仲と合流して京都を目指したのである。
■むすび
かつて、歴史家の松本新八郎氏は、山本義経と源義経は同一人物であると指摘した。しかし、今では誤りであると指摘されている。義経については、また追々取り上げることもあるだろう。
【主要参考文献】
松本新八郎「玉葉にみる治承四年」(『文学』17号、1949年)