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【深読み「鎌倉殿の13人」】ブラックな源義経。本当に義円を陥れたのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義経は、ブラックな性格だったのか。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」12回目では、源義経が義円を陥れていた。義経のブラックさが満開だったが、この点を深く掘り下げてみよう。

■源義経と義円

 源義経は平治元年(1159)の生まれで、義円は久寿2年(1155)の誕生。義円が4つ年上である。ともに父は源義朝で、母は常盤御前である。平治の乱後、義経は奥州に落ち延び、義円は園城寺(滋賀県大津市)で僧侶となっていた。

 治承4年(1180)が源頼朝が「打倒平家」の兵を挙げたので、ともに兄のために協力を申し出たのである。ここで、改めて大河ドラマでの二人の様子を確認しておこう。

■大河ドラマの内容

 頼朝の挙兵後、叔父の源行家がやって来て、頼朝に上洛を促した。しかし、頼朝らは飢饉により兵糧の確保が困難なことなどを理由にして、これを拒否する。

 怒った行家は、義経ら頼朝の弟に行動をともにするよう檄を飛ばすが、頼朝の意向に逆らえないと断る。行家は彼らの不甲斐なさに、ただ怒るしかなかった。

 その日の夜、義円は義経に「行家に従うべきだっただろうか?」と問いかける。すると、義経は義円が和歌を詠むなど、教養をひけらかしたので、頼朝の気に障ったようだなどと義円に不安を抱かせた。

 そして、義経は不安になった義円に対して、「行家とともに出陣し手柄を挙げれば、頼朝の見る目も変わるではないか」とけしかけた。義円は一瞬考えこむが、結局は出陣を決意し、思いを込めた頼朝への書状を義経に託したのである。

 しかし、義経は義円の書状をびりびりに引き裂き、処分した。翌日、頼朝から義円の行方を尋ねられた義経は「知らない」としらを切るが、梶原景時が義円の破れた書状を復元し持参したので、ことが露見した。

 大河ドラマでは、義経の登場以降、その性格をかなりブラックに描いている。はたして、このような事実はあったのか。あるいは、妥当性のあるストーリーなのか考えてみよう。

■鎌倉にいなかった義円

 これ以前の大河ドラマの回では、義円が頼朝のもとに馳せ参じたように描かれていた。実は、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』には、義円が頼朝に面会したの記述はない。

 また、ドラマのように、行家が頼朝のもとを訪れ、上洛を促したのかも不審である。行家は頼朝の配下に加わらず、三河、尾張、美濃方面で独自で反平家の活動を起こしていた。

 そして、義円も尾張にいた可能性が高いとされている。義円は尾張で家族とともに生活していた。行家が挙兵した際、頼朝は義円のもとに1000騎の援軍を送り込んだという(『源平盛衰記』)。義円はこの軍勢とともに、行家と合流したのだろう。

 治承5年(1181)3月、墨俣川(岐阜県大垣市)で義円と行家は、平家の軍勢と戦った。しかし、義円は平家の家人で侍大将の平盛国に無念にも討たれたのである。なお、大垣市には義円を偲んで、「義円公園」、「墨俣川合戦の碑」、「義円地蔵」、「源義円供養塔」などがある。 

■むすび

 とはいえ、大河ドラマはあくまでフィクションである。義円の最期は残念だったが、今後どのように義経が描かれるのか、大いに期待したい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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