【深読み「鎌倉殿の13人」】北条義時は、本当に八重に求婚したのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」11回目では、北条義時が八重に求婚していた。むろんフィクションと思われるが、この点を深く掘り下げてみよう。
■八重とは
改めて確認すると、八重は伊東祐親の娘であるが、生没年は不詳である。源頼朝が伊豆に流されると、祐親にはその監視役が任された。祐親が京都大番役を勤めるため上洛すると、頼朝はその隙に乗じて八重と結ばれ、千鶴なる男子をもうけた。
これを知った祐親は激怒し、家人に命じて千鶴を殺害させた。八重が頼朝と結ばれ、一子をもうけたことが平家に露見すると、立場が悪くなるからだった。その後、頼朝は北条政子と結ばれたが、八重の以後の動静については不明である。
八重が登場する史料は、『曽我物語』という軍記物語(二次史料)であり、その記述内容に全面的に信が置けるか疑問が残る。あくまで逸話・伝承、あるいは創作の類である可能性も否定できない。むろん、善児なる下人が千鶴を殺したなどは完全な創作である。
■北条義時は八重に求婚したのか
とはいえ、大河ドラマで北条義時が八重に求婚したという場面を描かせたのには、もちろん理由があるだろう。推論とは断りながらも、八重が頼朝の御所に勤めていたこと、北条義時と結婚して泰時を産んだとの説が提示されている。
しかし、この説には史料的な裏付けがないという決定的な問題があるうえに、どうしても首肯できない点がある。そもそも八重の実在そのものが疑わしいが、仮に実在したとしても、頼朝に楯突いた伊東祐親の娘である。そんな事情があるのに、二人は結婚できたのか。
義時の正室(姫の前)は、御家人の比企朝宗の娘である。義時が朝宗の娘を娶ったのは、有力な御家人と強固な関係を結びたかったからだろう。しかし、建仁3年(1203)に比企能員の乱が勃発し、比企氏が滅亡すると、義時は姫の前との離縁を余儀なくされた。
いかに有力者の娘とはいえ、それが反逆者になれば、容赦なく離縁を迫られたのだ。
■むすび
当時の婚姻は自由恋愛ではなく、あくまで政略的な意図に基づいて行われた。有力者と結ぶことができるか否かが、一族のその後の命運を左右するからだ。むろん遊女と結婚することもあったので、一概には言えないかもしれないが、あえて義時が反逆者の娘を娶るとは考えにくい。