Yahoo!ニュース

【深読み「鎌倉殿の13人」】そもそも、なぜ源頼朝は死罪でなく、伊豆への流罪に減刑されたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝は伊豆に流されたので、北条政子と出会った。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、なぜ源頼朝は死罪でなく、伊豆への流罪に減刑されたのか説明がなかった。その理由について、深く掘り下げてみよう。

■平治の乱で敗北する

 平治元年(1159)12月、平治の乱が勃発し、源義朝(頼朝の父)はかねて関係が悪かった平清盛と戦った。結果は清盛の圧勝で、敗れた義朝は逃亡先の尾張で謀殺された。義朝の子・義平、朝長は、処刑あるいは傷病がもとで亡くなった。

 一方、同じ義朝の子であっても、希義は土佐に、頼朝は伊豆へとそれぞれ流罪になった。今若丸(阿野全成)、義円、牛若丸(源義経)も処刑されず、僧侶になることを条件に許された。なお、範頼は遠江で養育されていたという。義朝の子は、明暗を分けたのである。

 注意すべきは、平治の乱に出陣した義平、朝長、頼朝のうち、頼朝だけが許されたということである。ほかの子供たちはまだ幼く、出陣のしようもなかったので、助かったということだろう。

■通説による頼朝が助かった理由

 通説では頼朝が処刑にならず、伊豆に流罪になった理由について、次のとおり説明している。

 永暦元年(1160)2月、頼朝は逃亡先の近江で捕縛され、京都に連行された。頼朝は処刑されることになり、もはやその命は風前の灯火だった。

 池禅尼(清盛の義母)は、頼朝の姿に早逝した我が子の家盛の面影が重なり、清盛に助命嘆願を乞うたという(『平治物語』)。

 あるいは、池禅尼がまだ幼さの残る頼朝の姿を憐れんで、清盛に死罪を取り止めるよう嘆願したともいわれている(『愚管抄』)。

 いずれにしても、池禅尼が頼朝の助命嘆願に関わっており、それゆえ頼朝は処刑を免れ、伊豆への流罪でことなきを得た。ただ、あまりに理由が情緒的であるが、史実とみなしてよいのか疑問である。

■カギを握る頼朝の母の出自

 ここで問題としたいのが頼朝の母の出自である。義朝には、正室の藤原季範娘のほか、側室として常盤御前、三浦義明娘、波多野義通妹、遠江国池田宿遊女、青墓長者大炊がいた。このなかで重要なのは、源頼朝の母・藤原季範娘である。

 藤原季範は熱田大宮司を務め、娘は待賢門院(鳥羽天皇の皇后)、上西門院(鳥羽天皇第2皇女)の女房だった。季範の人脈は、朝廷にすっかり浸透していたのである。なお、頼朝は上西門院、二条天皇の蔵人でもあった。この関係により、頼朝は助かった。

 近年の研究によると、季範の人脈の上西門院、後白河法皇(鳥羽天皇と待賢門院の子)のルートから頼朝の助命嘆願が持ちかけられ、さすがの清盛もそれを受け入れざるを得なかったという。

 そもそも清盛には、義朝の子らを根絶やしにする意図がなかったことは、義経らが生き残ったことから明らかだろう。我が世の春を謳歌していた清盛にとって、「落ち目」の源氏は眼中になかった。流罪にするか、出家させるかで十分だったのである。

■むすび

 頼朝が挙兵した翌年の治承5年(1181)、清盛は「ああ、あのとき頼朝を殺していれば」と思ったかもしれない。しかし、それはあくまで結果論で、平治の乱が終わった時点では、まさか頼朝が叛旗を翻すとは、夢にも思わなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事