【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝が弟の義経に黄瀬川で会った複雑な事情
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」9回目では、源頼朝が長く会っていなかった弟の義経と初対面を果たした。二人が黄瀬川で会った件について、深く掘り下げてみよう。
■義経の登場
治承4年(1180)10月、源頼朝は富士川の戦いで平家に勝利すると、そのまま追撃することはなかった。同年10月21日夜、ついに頼朝は義経と黄瀬川宿で初対面を果たした。その模様は『吾妻鏡』に書かれているので、以下、紹介することにしよう。
その日の夜、ある若者が頼朝の宿所を訪れ、面会したいと申し出た。土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実は若者を怪しみ、相手にしなかった。その後、頼朝はその話を耳にして、年齢を考慮すると、奥州に落ち延びた義経であると確信した。
頼朝は「早くその若者に会いたい」と言ったので、実平はその若者を招き入れた。頼朝が考えたとおり、若者は義経だった。義経は頼朝の前に進み出ると、これまでの身の上話をし、涙したという。
『吾妻鏡』は、頼朝と義経の感動的な対面に続いて、義経の経歴を書き記している。もっとも肝心なところは、義経は頼朝の挙兵を知って、居ても立ってもいられず、東国に向かおうとしたことだろう。しかし、義経を庇護していた藤原秀衡はこれを押し止めた。
そこで、義経は密かに奥州平泉を出発した。これを知った秀衡は、義経に佐藤継信・忠信兄弟を付けたというのである。頼朝と義経の対面の感動を際立たせる逸話だろうか。
とはいえ、義経の前半生だけではなく、頼朝と義経の感動的な対面については、たしかな史料で裏付けられない。『吾妻鏡』の記述は、少しばかり疑ってかかる必要があろう。
頼朝が宿泊した場所は、黄瀬川宿のことである。黄瀬川宿は、古代から鎌倉・箱根方面への交通の要衝として知られ、宿駅が設置された。黄瀬川宿は関東から中部方面への結節点で、軍事的にも重要だった。
頼朝と義経が対面した場所は、静岡県沼津市の旧大岡村の黄瀬川東岸部と推測されている。付近の長沢八幡宮には「兄弟対面の石」が残っているが、もちろん当時のものではないだろう。
■長い空白期間
義経は頼朝と念願の対面を果たしたが、以後、養和元年(1181)7月までの間、史料上に姿をあらわさない。これは実に不思議なことといわざるを得ない。
治承4年(1180)、頼朝は常陸国の佐竹義政と甥の秀義を討ったが、そのときに義経は出陣していない。養和元年(1181)2月、頼朝は平家の東上に備え、和田義盛らを遠江国に遣わした。しかし、この軍勢に義経は加わっていない。
同年閏2月、頼朝は志田義広を討伐したが、やはり義経は出陣していない。義経ほどの戦上手なら、2つの戦いで活躍が期待できただろうから不思議な話である。
義経は頼朝と対面したとき、もう21歳の青年だった。「兄の頼朝のために」というのならば、いの一番に出陣して大いに軍功を挙げ、期待に応えるべきであろう。なぜ記録に登場しないのか。その理由は、いくつか考えられる。
まず、義経はそれぞれの合戦に出陣したかもしれないが、記録に残すほどの活躍をしなかった可能性があることだ。たしかに、何を書き残すのかは、記録を書いた人に委ねられている。
もう一つの理由は、義経はほかの豪族のように、配下の者を従えていなかったからだ。同時に頼朝としては、ほかの協力してくれた諸豪族を差し置いて、義経を優遇することはできなかったに違いない。また、義経の力量を知るべく、一定の時間が必要だっただろう。
実際のところ、頼朝は義経が海のものとも山のものともわからなかったので、とりあえず手元に置いていたのだろう。
■むすび
『吾妻鏡』には、頼朝と義経の対面を感動的に伝えているが、創作臭が否めない。
実際の頼朝は義経と対面して、驚きと困惑を隠せなかったのではないだろうか。それは、初対面だったことに尽きる。頼朝は義経のことを何も知らなかったのである。そこには、複雑な事情があったのだ。