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【深読み「鎌倉殿の13人」】平家は富士川の戦いで、水鳥の羽音に驚いて逃げたのは事実か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平家は水鳥の羽音に驚き逃亡したのか?(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」9回目では、源頼朝が富士川の戦いで平家を敗走させた。一説によると、平家は水鳥の羽音に驚いて逃げたというが、その点を深く掘り下げてみよう。

■着々と進軍する源頼朝

 治承4年(1180)に「打倒平家」の兵を挙げた源頼朝は、紆余曲折を経ながらも、東国の豪族をまとめることに成功した。同年10月、頼朝は数万の軍勢とともに、鎌倉入りを果たした。同じ頃、平家も頼朝の動静を知って、ただちに追討の兵を送り込んだ。

 その間、頼朝以外の反平家の源氏一門にも動きがあった。源義仲は信濃で「打倒平家」の兵を挙げると、たちまち信濃から上野方面へと侵攻した。

 武田信義ら甲斐源氏は、頼朝よりも早く駿河に攻め込み、同国の目代・橘遠茂らと戦い討伐した。信義には北条時政が付き従っていたが、この時点で頼朝に従うか否かは未知数だった。そのときの情勢によっては、信義が敵対する勢力にもなりえた。

 事態が緊迫化したので、10月16日に頼朝は大軍を率いて出陣した。信義の軍勢と合流し、平家の追討軍を打ち破るためである。こうして10月18日、頼朝は駿河国黄瀬川で信義の軍勢と合流した。

■平家の頼朝追討軍

 同じ頃、平家は平維盛を総大将とし、平知度、平忠度、藤原忠清ら頼朝追討軍が頼朝を討つべく、東国へと向かった。ただし、出陣の吉日をめぐって、維盛と忠清が口論になるなど、前途は多難だった。平家は信義らが平家に味方してくれるという、淡い期待があったという。

 その期待は見事に裏切られた。平家には東海道を進軍する過程で、多くの武将が軍勢に加わっていた。しかし、信義らが味方にならないと知るや脱落し、平家の軍勢は約4000に減っていた。平家に味方した将兵は寄せ集めで、忠誠心が乏しかったのだ。

 いよいよ平家が頼朝の軍勢と富士川で対峙すると、平家の軍勢数百騎が目の前で頼朝の軍勢に加わった。もはや、平家方では脱落した兵を引き留めることさえできなかったのである。平家の軍勢は、わずか約2000にまで減っていた。

■いよいよ戦いへ

 10月20日夜、信義の率いる軍勢が平家の背後に回った。そのとき富士沼の水鳥が軍勢に驚き、一斉に羽ばたいたという。水鳥が羽ばたいた音を聞いた平家の軍勢は、敵の襲撃と驚き大混乱し、一斉に戦線から離脱した。これにより、平家は戦わずして負けたのである。

 水鳥の羽音に関する逸話を載せるのは、『源平盛衰記』、『平家物語』といった軍記物語である。鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には、平家が敵に攻囲されるのを警戒していたところ、水鳥の羽音がしたので逃亡したと記されている。

 一方、公家日記の『山槐記』では、平家が水鳥の羽音に驚き、自ら陣営に放火して逃げたと記す。『玉葉』では、平家側の数百騎の味方の軍勢が源氏に与したため撤退したと記録されている。『吉記』には、平家が敵の大軍に勝ち目がないと判断し撤退を決め、逃げるときに火災が起こったと記す。

 平家が水鳥の羽音に驚いて逃げたというのは、彼らがいかに臆病だったかを強調する逸話にすぎないだろう。

 むしろ、平家は自軍から脱落者が続出したので、頼朝との戦いに勝ち目はないと考えたのではないだろうか。そして、敵の目をくらませるべく各所に放火したうえで、平家が逃亡したというのが真相だったと推測される。 

■むすび

 京都に逃げる平家の軍勢は、その途次でも次々と脱落者が出た。11月5日、知度は無事に入洛したものの、兵はわずか20余騎まで減っていた。維盛に至っては、軍勢が10騎にも満たなかったという。これを聞いた清盛が激怒したのは、もちろん言うまでもない。

 その後、頼朝は平家を追撃することなく、いったん鎌倉に戻った。その点については、追って取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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