あのときすぐに従っておけば… 豊臣秀吉の逆鱗に触れて消された戦国大名3選
豊臣秀吉は天下取りの途上で、多くの大名を配下に収めたが、なかにはしぶとく抵抗する者もいた。その場合、秀吉は決して許すことなく、全力で戦いを挑んだ。結果、「言うことを聞けばよかった・・・」と後悔する大名もいた。そのうち3人の大名を取り上げることにしよう。
■織田信孝
天正10年(1582)6月に織田信長が本能寺の変で横死し、直後に首謀者の明智光秀が討たれた。その後、三法師(信忠の子)が織田家の家督を継ぐことになるが、その後見人の座をめぐって、信長の次男・信雄と三男の信孝は争った。かつて、2人は織田家の家督を争ったといわれていたが、それは誤りである。
その間、羽柴(豊臣)秀吉が清須会議を終え、織田政権における主導権を掌握した。これに納得しない信孝は、柴田勝家らとともに秀吉に挙兵した。しかし、力の差は歴然としており、信孝はすぐさま降参に追い込まれた。
降参した信孝は居城の岐阜城を奪われ、切腹を申し付けられた。一説によると、信孝は切腹すると腹から内臓を掴みだし、寺の床の間の掛け軸に投げつけたという。大変豪快な逸話であるが、史実とは認めがたい。信孝とともに挙兵した勝家も、秀吉に屈した。
ちなみに兄の信雄は、天正18年の小田原合戦後に秀吉から転封を申し渡されたが、拒否して改易された。
■高山右近
高山右近は、キリシタン大名として知られている。天正10年(1582)6月の山崎の戦いで、右近は秀吉に与したので、その後も重用されることになり、明石で6万石を領した。右近は明智光秀からも味方になるよう誘われていたが、それを断っていたのである。
しかし、秀吉が天正15年(1587)に伴天連追放令を発布すると、右近の運命は暗転した。この法令により、キリシタンの立場は危うくなった。右近は秀吉からキリスト教の棄教を命じられたが拒否し、明石6万石を取り上げられたのである。ここから右近の苦難がはじまる。
その後、右近は前田利家に庇護されたが、そこも居づらくなり、慶長19年(1614)には幕府の禁教令発布によりマニラに追放された。もはや、右近は日本に止まることができなくなっていたのだ。その翌年、右近は異国の地で静かに生涯を閉じたのである。
ただ、右近は秀吉には嫌われたかもしれないが、マニラ市民には大歓迎されたという。今も英雄として崇められている。
■北条氏政
北条氏政は関八州に覇を唱えていたが、天正17年(1589)に北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件を起こした。名胡桃城は、真田氏の支城だった。猪俣氏の行ったことは秀吉の政策基調の惣無事(私選の禁止)に反する行為だったので、秀吉は激怒した。
氏政はすぐに対処すればよかったが、上洛を引き延ばしたことが秀吉の逆鱗に触れ、ついに秀吉は小田原征伐を決意した。一説によると、北条氏は対応を協議していたが、なかなか方針が決定しなかった。以後、時間だけが過ぎ、何も決まらない会議を「小田原評定」というようになった。
天正18年(1590)、出陣した秀吉は次々と北条方の城を落とした。それまで北条氏は、関八州に支城ネットワークを築いていたのだから、あまりにあっけないことだった。7月になると、氏政は情勢を挽回できないことを悟り降参した。氏政にとって、予想外の展開だったに違いない。
秀吉は氏政に切腹、子の氏直を高野山へ追放することを決定した。氏直は、父・氏政の助命嘆願を行ったが、聞き入れられなかたという。このとき、北条氏照、家臣の松田憲秀・大道寺政繁も切腹を命じられたのである。
■むすび
秀吉は天下統一の過程において、諸大名に対し従属を強く迫った。いち早く従った者については、それなりに処遇をしたが、反抗した者には力で応じた。相手が助命を乞うても許すことなく、自害を命じるのが当たり前だった。
とはいえ、反抗した大名も負けるとは思っていなかっただろうから、あとで考えると「言うことを聞けばよかった・・・」と思ったに違いない。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】