【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝は、なぜ豪族たちから「武衛」と呼ばれたのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」8回目では、源頼朝を「武衛」と呼ぼうと提案されていた。武衛といっても聞き慣れないが、当時の名前を呼ぶ習慣とあわせて、その点を深く掘り下げてみよう。
■名前を呼ぶ習慣
現代では、人の名前を呼ぶ際、普通は「渡邊さん」と名字で呼ぶだろう。ただ、親しい相手になると、「大門さん」などと、下の名前で呼ぶに違いない。初対面の人に会ったとき、いきなり下の名前で呼ばれるのは、少しばかり驚くに違いない。
会社に行けば、また様子が変わって来る。同僚の場合は、「渡邊さん」と名字で呼ぶはずだ。これが上司になると、「課長」、「部長」と職名と呼ぶだろう。ただ最近は上下関係を避け、フラットな関係を浸透させるため、あえて職名で呼ばない会社もあるそうだ。
時代劇を見ていると、「頼朝殿!」と実名で呼ばれるシーンが見られるが、間違いである(この点は後述)。正しくは、大河ドラマのように「佐殿!」といった官職で呼ぶ。まだ官職がない場合は、北条義時のように、仮名の「小四郎殿」と呼ぶほうがいい。
次に、名前の仕組みを簡単に確認しておこう。
■名前の仕組み
子供は誕生すると「~丸」などの「幼名」がつけられ(日吉丸など)、おおむね13歳以降に元服すると、烏帽子親から「~太郎」などの「仮名(けみょう)」と名前の「諱(いみな)」を授けられた。
「諱」(下の名前)は父祖伝来の通り字(足利義昭なら「義」字)や主君から偏諱(主君の諱の一字)を与えられることが大半だった。
そして、当時の人々は、決して「諱」で呼ばれることがなかった。もともと「諱」は「忌み名」と書き、死後に贈られる称号だったが、のちに生前の実名を示すようになった。もともとは死後に贈られる称号なのだから、むやみやたらと「諱」で呼ばれることがなかったのだ。
それゆえ、生前は「諱」ではなく、「仮名」などで呼ばれるのが普通だった。仮名とは「諱」を呼称することを避けるため、便宜的に用いた通称のことで、先述した「太郎」「次郎」などが用いられた。
■官途とは
「官途」はもともと名前ではなく、受領(尾張守など)や京官(左大臣など)などの朝廷の官職だったが、やがて名前の一部を成すようになる。
当時は、相手を「諱」で呼ぶことを避けていたので、「備前守殿」などと呼ぶようになったのだ。なお、官途は朝廷からの正式なルートで授けられることもあったが、多くの武将は父祖伝来の官途を私称していた。
姓名を名乗る場合は、「名字」+「仮名(あるいは官途)」+「諱」を用いていたが、口宣案(官職の辞令書)には、「氏」+「姓」+「諱」といった順で記された。
■武衛とは
武衛とは天子を守る武官のことで、将軍のことを意味した。日本では、兵衛府の唐名とされる。兵衛府とは、令制の官司の一つで、御所警衛、行幸の供奉、京内巡視などを担当した。なお、斯波氏は左兵衛督に任じられたので、武衛と呼ばれた。
武官を司る役所としては、ほかに近衛府がある。近衛大将は「将軍」と呼称され、兵衛府の次官の唐名は「武衛将軍」だった。大河ドラマで豪族らが言っていたように、頼朝の「左兵衛佐」よりも高い官職である。
唐名とは、日本の官職を中国の官称で呼称したものである。たとえば、太政大臣=相国(しょうこく)、大納言=亜相(あしょう)、中納言=黄門(こうもん)といった具合である。
『吾妻鏡』では、最初こそ「佐殿」と記しているが、文治元年(1185)に頼朝が従2位に昇進するまで、「武衛」と書いている。以降は、「鎌倉殿」である。武衛とは、頼朝の尊称になろう。
■むすび
豪族たちは、口々に「武衛」と叫んで大爆笑だったが、実は上記のような意味があった。ただ、頼朝は決して、悪い気がしなかっただろう。