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【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝だけではなかった。各地で「打倒平氏」の兵を挙げた豪族

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
木曽義仲も「打倒平氏」の兵を挙げた。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」7回目では、再起を図る源頼朝の姿が描かれていた。ところで、「打倒平氏」の兵を挙げたのは頼朝ら東国の豪族だけではなかった。その点を深く掘り下げてみよう。

■木曽義仲の挙兵

 木曽義仲は、源義朝(頼朝の父)の弟・義賢の子である。父の義賢は義朝と仲違いして、久寿2年(1155)に武蔵国大蔵館で義平(義朝の子)に殺された。義仲が誕生したのはその前年で、義賢の死後は信濃木曽の豪族・中原兼遠が養育した。

 治承4年(1180)9月7日、以仁王の「打倒平氏」の呼び掛けに応じた義仲は、ただちに平氏方の小笠原頼直と戦い、越後国に放逐した。これにより義仲は、信濃国の制圧に成功した。

 同年10月、義仲は上野国多胡荘(群馬県高崎市)に進出を果たした。多胡荘は、かつて義賢の勢力圏でもあった。しかし、同年末、義仲は頼朝と衝突するのを回避すべく、いったん信濃に戻った。平氏方に与した越後の城氏を打ち破ったのは、翌年のことである。

■甲斐の武田信義、安田義定

 頼朝と同じ源氏で、甲斐に勢力基盤を置いた武田信義、安田義定も「打倒平氏」の兵を挙げた。治承4年(1180)10月、安田義定は駿河国に攻め込み、平家方で同国の目代を務めていた橘遠茂を討った。

 同年9月、武田信義・一条忠頼も木曽義仲の挙兵に呼応し、信濃国に攻め込んだ。信義らはその勢いで、駿河国に威勢を及ぼそうとしていたのである。

■独自に挙兵した面々

 ほかに東国の源氏では、上野国の新田義重、常陸国の佐竹秀義、志田義広といった面々が独自に行動していた。また、近江源氏の山本義経、柏木義兼も独自で兵を挙げていた。いまだ、彼は頼朝との協力体制を築いていなかったのである。

 その後、近江国の園城寺、延暦寺、大和国の興福寺でも内部抗争が勃発し、そこで主導権を握ったグループが反平氏の態度を鮮明にしていった。彼らは近江の在地武士と協力したが、これに対抗した平氏は、南都焼き討ちなどを実行したのである。

■紀伊国熊野の別当・湛増の挙兵

 「打倒平氏」の兵を挙げたのは、なにも豪族だけに限らなかった。紀伊国熊野の別当・湛増もその一人だった。しかし、平治元年(1159)の平治の乱の際、湛増は熊野参詣に来ていた平清盛を助けたことで知られている。

 湛増は平氏方に与した弟の湛覚を襲撃し、「打倒平氏」の狼煙を上げた。その後、湛増は伊勢、志摩へと侵攻し、さらに平氏の経済基盤だった安房へと渡海した。

 もともと平氏と深い関係にあった湛増でさえもが裏切ったのだから、いかに事態が深刻だったか理解できよう。もはや、反平氏のうねりは止めようもなかったのだ。

■九州での反平氏の動き

 九州でも反平氏の動きが顕著になった。その中心人物だったのが、肥後国菊池郡に本拠を持った菊池高直である。朝廷から高直追討の宣旨が下されたが、かえって太宰府が焼き討ちに遭うありさまだった。

 豊後国でも住人らが反平氏の行動を取り、目代を追放するという事件が勃発していた。平清盛は追討使を派遣しようとしたが、知行国主だった藤原頼輔はこれを中止させようとした。頼輔は、国主としての地位を失うことを懸念していたのである。

 その後、九州における反平氏の動きは、平氏の有力な家人・平貞能によって鎮圧された。貞能は九州にかなりの勢力を浸透させていたので、うまくいったのだろう。平氏が都落ちしたとき、九州に落ちた理由はここにあった。 

■むすび

 大河ドラマでは、当然ながら頼朝や東国の豪族の動きが中心になるのだが、実際には各地で「打倒平氏」の兵が挙がっていた。今後、少しずつドラマでも取り上げられることだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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