意外な趣味を持っていた戦国大名5選 実は気分転換ではなく"政治"の意味合いも
戦国武将といえば、戦いに明け暮れるイメージしかないが、実は意外な趣味がある者もいた。今回は、意外な趣味で有名な戦国武将を5人取り上げることにしよう。
■真田昌幸/碁
真田昌幸(1547?~1611)は上田城(長野県上田市)主で、「表裏比興」の策士として知られる人物である。かの信繁(幸村)の父でもある。
実は、この昌幸、碁を趣味としていたことで知られていた。昌幸が徳川家康の軍勢が上田城に押し寄せた際も、それに動じず、悠々と碁を打っていたとの逸話が残っている。
また、昌幸は豊臣秀吉と碁を打ち、信玄の軍略について語ったとも言われている。昌幸は大坂の陣を目前にして病死したが、将来に備えて信繁に家康との戦いをシミュレーションした。それは、あたかも碁で戦うような戦術だったという。
■赤松政則/刀
赤松政則(1455~96)は、播磨国守護。嘉吉の乱でいったん滅びた赤松氏を、応仁・文明の乱後に復活させた人物でもある。能や猿楽の名手でもあった。
政則が有名なのは、作刀である。その腕はたしかなもので、備前の刀工・長船宗光から学んだという。政則が作った刀は多数におよび、その大半は家臣に授けられた。
政則は家臣に自分で作った刀を与えることで、統制を行おうとしたと考えられる。現在、政則の作った刀は、高値で取引されている。
■小堀遠州/作庭
小堀遠州(1579~1647)は、近江小室藩主。備中松山城、駿府城などの修改築に携わるなど作事に優れ、茶の湯、華道、七宝を得意とする風流人だった。
遠州といえば、作庭の名人でもあった。関係した庭はかなりの数になり、仙洞御所、二条城、池上本門寺、龍安寺、高台寺など多数にわたる。
遠州の庭の特徴は、切石や石畳を直線的に配置した、斬新かつ大胆な構成にあったといわれている。独自の美意識と自然な調和が大きな魅力である。
■豊臣秀吉/茶
豊臣秀吉(1537~96)は関白を務めた天下人である。秀吉は非常に多趣味で、禅、有職故実、連歌、和歌、儒学、能を嗜んでいた。なかでも茶は、千利休に師事していた。
天正15年(1587)、秀吉は京都の北野天満宮の境内などで、千利休らを著名な茶人を茶頭として招き、大規模な茶会を催した。これが北野大茶湯である。
また、大坂城内には、人々が驚くような黄金の茶室を作った。のちに、秀吉は利休に切腹を命じるが、その理由は未だに明らかとはなっていない。
■徳川家康/鷹狩り
徳川家康(1543~1616)は江戸幕府を開き、自ら初代将軍になった人物である。武芸を好むだけでなく、大変な読書家でもあった。そんな家康は鷹狩りを愛好した。
鷹狩りとは、訓練した鷹を放ち、野鳥を捕獲する猟の一種である。家康は江戸周辺で、盛んに鷹狩りを行ったといわれている。
家康にとっての鷹狩りは、単なる遊芸ではなく、身体を鍛えるための運動でもあった。また、軍事的あるいは政治的な視察を兼ねていたともいう。
■まとめ
戦国武将が趣味に打ち込むのは、気休めや遊芸のためではなかったようだ。それは、ときに家臣との紐帯を強めるなど、政治的な効果も大いに期待されたのである。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】