Yahoo!ニュース

【深読み「鎌倉殿の13人」】佐藤浩市さんが演じる上総広常は、最初、源頼朝を討とうとした

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝は、上総広常に討たれそうになった?(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」6回では、佐藤浩市さんが演じる上総広常が登場した。源頼朝に味方した広常は、なぜ最初は頼朝を討とうとしたのか考えることにしよう。

■上総一族とは?

 最初に、上総氏について触れておこう。上総氏は、坂東八平氏(千葉、上総、三浦、土肥、秩父、大庭、梶原、長尾の各氏)の流れを汲む一族である。

 上総氏の遠祖は、平常長(1024~1108)の五男・常晴である。常晴は下総国相馬郡(現在の茨城県取手市、千葉県柏市ほかの地域)を支配して相馬五郎と名乗り、上総権介の地位を世襲した。

 常晴の没後、家督を継承したのは、養子に迎えた常重である。常重は、常晴の兄・常兼の子だった。常重は下総国相馬郡の支配権を継承し、実父・常兼の死後には下総国千葉郡(千葉氏ほかの地域)も支配した。こうして常重は、下総国内に2郡を支配する大豪族になったのだ。

 しかし、常重の時代は、そう長くは続かなかった。保延2年(1136)、常重は相馬御厨をめぐってトラブルが生じ、源義朝(頼朝の父)の干渉を許すことになった。

 その際、義朝に与して、常重と所領を争いをしたのが常澄だった。常澄は常晴の子で、相馬六郎と称していた。この常澄こそが広常の父である。以後、常澄・広常父子と常重・常胤父子の争いは、しばらく続くことになった。なお、常澄の生没年は不詳である。

■上総広常の登場

 広常は常澄の八男として誕生したが、残念ながら生年は不詳である。常澄・広常父子は、常重・常胤父子との争いを有利にすべく、義朝に与した。

 保元元年(1156)に保元の乱が勃発すると、常澄・広常父子は義朝に従い勝利した。平治元年(1159)に平治の乱が勃発すると、常澄・広常父子は義平(義朝の子)に属して平氏と戦ったが、敗北。常澄・広常父子は戦場を離脱し、自らの本拠に逃げ帰った。

 その後、常澄は亡くなり、広常は平氏に帰伏することになった。広常は常澄の遺領だけでなく、上総介としての権限も継承したのである。

 しかし、治承3年(1179)、広常は上総介に就任した平氏の譜代の家人・伊藤忠清とトラブルになり、平清盛との関係が悪化した。さらに、下総国では平氏の姻戚だった藤原親政(妻は平忠盛の娘)が勢力を伸ばしつつあった。

 広常は平氏から圧迫されたので、やがて平氏に反感を募らせたのは、容易に想像できるところである。

■頼朝の挙兵

 治承4年(1180)、源頼朝は打倒平氏の兵を挙げた。山木兼隆を討つことには成功したが、大庭景親との戦いには敗北。頼朝は安房国に逃れて、再起を期した。

 安房国に逃れた頼朝は、東国各地の豪族に打倒平氏の挙兵を呼び掛けた。そのなかの一人が広常だった。広常は、すでに上総国などの平氏与党を討っていた。

 広常は約2万の軍勢を引き連れて、頼朝のもとに参上した。広常は頼朝と面会した際、将としての器がなければ、討ってしまおうと考えたという。広常は、まだ頼朝を心の底から信用していなかった。

 しかし、その態度を見透かしていた頼朝は、逆に広常の遅参を手厳しく注意した。これにより広常は、頼朝に恭順の意を示すことなった。とはいえ、話が出来すぎており、史実か否か検討を要しよう。

 広常が率いた軍勢は、先述のとおり約2万と言われているが、諸書により数が違う。『源平闘諍録』では千、『延慶本平家物語』では1万という具合である。現実問題として、1万、2万という軍勢は動員が可能なのか、疑問が残るところである。

■むすび

 とはいいながらも、頼朝は東国で最大、最強の広常を味方にすることで、以後の戦いを有利にした。広常については、また追々取り上げることになると思う。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事