【深読み「鎌倉殿の13人」】中村獅童さん演じる「チクリ魔」梶原景時とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、ようやく中村獅童さん演じる梶原景時が登場した。実は景時、大変な「チクリ魔」で、密告や讒言で多くの武将を地獄に陥れた。景時とは、どんな武将だったのか。
■梶原景時とは
景時は、景清の子として誕生した。生年不詳。その本拠は相模国梶原郷(神奈川県鎌倉市)で、この地を名字とした。先祖をたどると坂東八平氏の鎌倉景正で、大庭景親は同じ一族である。
梶原氏は大庭氏と同じく、もともとは源氏に仕える家人だった。しかし、平治元年(1159)の平治の乱で源義朝(頼朝の父)が平清盛に敗れると、以後は平氏に仕えた。
治承4年(1180)に頼朝が「打倒平氏」の兵を挙げたが、石橋山の戦いで景親の軍勢に敗れた。その際、景親方の景時は、頼朝の居場所を知ったものの、あえて知らせなかったという。
その後、景時は頼朝の配下となり、重用されることになった。「一ノ郎党」、「鎌倉ノ本体ノ武士」と呼ばれていたのは、頼朝の信が厚かった証拠だろう。鎌倉幕府では、侍所所司などの要職についた。
一方、景時は豊かな教養を持ち、和歌に秀でていたという。そんな景時であるが、評判は散々なものであり、多くの武将を密告や讒言で陥れたという。
■源義経との確執
景時は源義経(頼朝の弟)とともに、平氏追討のため西国に派遣された。これが、そもそもの不幸だったのかもしれない。
元暦2年(1185)の屋島の戦いに際して、景時は船に逆櫓を付けるべきであると提案した。逆櫓とは、船を前後に漕ぐことができるように取り付ける櫓のことである。
義経は景時の提案に対して「不要である」と反対したので、両者は激しい口論となった。結局、義経は平氏が陣を置く屋島を奇襲し、あっという間に勝利した。
景時が屋島に着いたのは、戦いの終わったあとだった。景時が大恥をかいたのは、いうまでもない。
同年の壇ノ浦の戦いで、景時は先陣を希望した。しかし、義経は景時の希望を退け、自身が先陣を務めると述べた。ここでも両者は口論となり、一触即発の事態となった。
その結果、景時は鎌倉の頼朝に戦況を知らせた際、義経が非常に傲慢であることを報告し、一刻も早く関東に帰りたいと述べた。このことが、頼朝の義経に対する心証を悪くしたという。これが、景時の讒言のはじまりだった。
■武将との確執
景時がほかの武将とトラブルになったのは、ほかにも例がある。
壇ノ浦の戦いで、夜須行宗という武将が軍功を挙げた。行宗が恩賞を願った際、景時は「行宗などの名前は知らない」と言ったので訴訟になった。しかし、行宗には証人がいたので、景時は訴訟に負けたのである。
文治3年(1187)、畠山重忠が地頭を務める伊勢国沼田御厨(三重県松阪市)で、代官が狼藉に及んだ。いったん重忠は罪を問われたが、のちに頼朝は許した。
その後、重忠は罪を恥じて、武蔵国菅谷館(埼玉県嵐山町)で一族とともに逼塞した。これを知った景時は、「重忠に謀反の意あり」とみなした。景時は重忠に起請文を差し出すよう要求したが、結局、頼朝は重忠を許したという。
正治元年(1199)に頼朝が没すると、結城朝光は「忠臣は二君に仕えず」と発言し、これが頼家(頼朝の子)を侮辱する発言(頼家には仕えないと解釈された)であると、景時は讒言した。その結果、景時はほかの御家人からも総スカンを食らい、翌年に討たれたのである。
■むすび
このように景時は「チクリ魔」だったので、すこぶる評判が悪い。とはいえ、『平家物語』に書かれた逸話は、やや誇張があるように思えなくもない。
しかし、大河ドラマのなかでは重要な役割を果たすだろうから、中村獅童さんが演じる景時には、大いに注目したいと思う。