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【戦国こぼれ話】荒木村重は織田信長に負け、妻子を殺されても逃げた情けない武将だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伊丹市には、荒木村重の居城・有岡城があった。(提供:イメージマート)

 直木賞を受賞した『黒牢城』が注目されている。『黒牢城』は、荒木村重が主人公である。ところで、村重は織田信長に反旗を翻したが、結局は逃げに逃げた挙句、晩節を汚すことになった。その過程を考えてみよう。

■劣勢になった村重

 村重は謀反に踏み切ったまではよかったが、情勢は信長有利に傾いた。高槻城主・高山右近、茨木城主・中川清秀は信長に帰順したので、当初の計画が大いに狂ったのだ。

 天正6年(1579)11月6日の木津川沖海戦においても、織田方が本願寺、毛利氏を撃破。これにより、信長は村重を引き留めることを止め、徹底した殲滅を決意した。

 同年11月中旬頃から、村重籠もる有岡城(兵庫県伊丹市)への攻撃が激化。総大将・織田信忠の攻撃は長期間に及び、村重ら城兵の籠城は10ヵ月に及んだ。

 翌天正7年(1579)9月、密かに村重は有岡城を脱出して尼崎城(兵庫県尼崎市)に逃れた。

 この点について、村重は尼崎城に逃れたのではなく、海上交通の便の良い尼崎に移ることで、大坂本願寺や毛利氏との連携を結ぶためという見解が示された。

 しかし、最近の研究によると、史料からはそういう村重の態度を読み取ることができず、従来の説のとおり、村重は「逃げた」と解釈すべきであるとの説が提起された。

■一族らの悲惨な最期

 有岡城は同年11月に落城し、村重の妻子ら30余人が信長に捕らえられた。村重は信長から降伏するように説得されるが、ついに受け入れなかった。

 仮に降伏したとしても、信長は村重を許さず、過酷な処罰が待っていると考えたからだろう。

 怒った信長は、京都で妻子36人を斬殺し、家臣およびその妻女600人余を磔刑、火刑という極刑に処した。

 信長は、これまでも敵対勢力を徹底して弾圧した。妻子や家臣を惨殺したのは、見せしめ的な要素があったといえよう。

 その後の状況を確認しておこう。村重は尼崎城を離れ、花隈城(神戸市中央区)へ逃亡。妻子が悲惨な目に遭いながらも、しぶとく抵抗し続けたのである。もはや執念だった。

■村重の晩年

 天正8年(1580)7月に花隈城が落城すると、村重はついに毛利氏のもとに逃げ込んだという。一説によると、尾道(広島県尾道市)に潜んでいたというが、その後の動静は不明である。

 天正10年(1582)6月の本能寺の変後、村重は堺に舞い戻り、千利休から茶を学ぶ。のちに村重は茶の宗匠として、豊臣秀吉に起用されるという皮肉な運命をたどった。

 ほかにも村重にまつわるエピソードが残っている。信長による有岡城攻めの際、高山右近らキリシタン大名は村重に味方しなかった。

 そこで、村重は高山右近らキリシタン大名を恨み、秀吉に讒訴したが、嘘が露見して出仕を止められたという。

 また、秀吉が出陣している最中、村重は秀吉の悪口を言いふらしていた。

 その事実は、やがて秀吉の妻「おね」の耳に入り、秀吉の知るところとなった。村重は厳しい処罰を恐れて自ら剃髪し、荒木道薫と名乗ったという。

 このように村重の晩年は悲惨だったが、天正14年(1586)に亡くなったのである。

■むすび

 村重は冷静に情勢を分析し、信長に反旗を翻したが、それは判断ミスだった。妻子や家臣を虐殺された村重は、いったい何を思っていたのだろうか。もはや知る由はない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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