【戦国こぼれ話】伊達政宗が葛西・大崎氏の旧領に国替えとなった知られざる裏事情
伊達政宗が眠る瑞鳳殿(宮城県仙台市)で煤払いが行われた。これで良い年を迎えられそうだ。
ところで、政宗は仙台に移る前、秀吉の命により岩出山に転封となった。その裏事情を探ることにしよう。
■侮れなかった伊達政宗
米沢(山形県米沢市)に本拠を置く伊達政宗が侮れない存在であったことは、豊臣秀吉も重々承知していた。
天正18年(1590)、秀吉は政宗が小田原(神奈川県小田原市)の北条氏征伐に遅参したことを許したものの、まだ疑っていたようだ。
その象徴こそが天正18年(1590)10月中旬頃からはじまった葛西・大崎一揆である。この一揆は、秀吉に改易された葛西氏・大崎氏の旧臣たちが加わった反乱だった。
ことの発端は、年貢の厳しい収奪である。新たに当該地域を支配した木村氏の家臣・荻田三右衛門は厳しく年貢を取り立て、百姓の妻子を捕らえるなどした。あまりの苛政に農民たちもさすがに耐えかねた。
当初、一揆は気仙郡、磐井郡東部からはじまったが、さらに北の和賀郡、稗貫郡へと広がり、さらに出羽国へと広がりを見せた。
葛西・大崎一揆は、奥州の領主層や農民が秀吉への反対の総意を示したものなのだ。
■政宗は一揆に加担したのか?
政宗は。危機に陥った木村氏の救援に駆けつけた。ところが、須田伯耆(政宗の家臣)が蒲生氏郷に対して、政宗が一揆勢力に加担し、謀反の意があると密告した。証拠は、政宗の書状である。
謀反は秀吉の知るところになったので、翌年1月に政宗は上洛し、申し開きを行った。この場で政宗は、自分の花押が偽物であると主張した。
政宗の花押は鶺鴒(せきれい)という鳥をあしらっており、本物の政宗の花押には鶺鴒の目の部分に針で小さな穴を開けていた。
しかし、謀反を記した書状には花押の鶺鴒の目に穴がないので、偽物だと主張したのだ。結果、政宗には旧葛西・大崎領が与えられ、本領を取り上げられた。
その後、一揆勢はよく抵抗したが、同年6月27日からはじまった佐沼城(宮城県登米市)の戦いで多くの人々の首が刎ねられ、女・子供も犠牲になった。
こうして長く続いた葛西・大崎一揆は、幕を閉じたのである。
■蒲生氏郷の関与
葛西・大崎一揆の際、政宗に謀反の嫌疑が掛けられたが、そこに一枚噛んでいたのが蒲生氏郷である。
氏郷は秀吉の股肱の臣というべき存在で、当時は会津を領しており、政宗を監視する役割も負わされていた。
政宗が葛西・大崎両氏の旧領を与えられた理由は、いくつか考えられる。まず、一揆で争乱状態にある旧葛西・大崎領を政宗に与え、本領を召し上げることにより、勢力を削ぐという作戦である。
長年、勢力基盤を築き上げていた本領の米沢から、新たなしかも争乱の地を与えられることは、政宗にとって大きな負担であった。
もう一つは、東北における政宗の地位低下を目論んだということだ。政宗の旧領は、氏郷に与えられた。
政宗の保持する石高は58万石になったが、氏郷は91万石の大名となったので、政宗の地位低下を招きかねない様相となった。
■岩出山への転封
こうした政宗の心中は、当時の書状でも確認できる。いよいよ岩出山(宮城県大崎市)に移るという前日、政宗は仕置や国分について家臣に説明すると書き残しているのだ。
家臣の間にも、転封について少なからず動揺が広がっていたのだろう。
政宗の新しい居城は、大崎氏の旧臣・氏家氏が本拠とした岩出山城を指定され、天正19年(1591)9月に移った。
この城は、大崎領の検地を行っていた徳川家康が改修を行い、政宗に引き渡されたものだ。政宗は、慶長6年(1601)に仙台城に移るまで、岩出山城を居城とした。
岩出山城は典型的な山城であり、標高108メートルの地点に築かれた天然の要害だった。
また、本格的な城下町が形成され、町人の居住区の外側に武士を集住させるなど、防禦体制が固められたのである。
■まとめ
秀吉は政宗の存在を恐れ、あえて岩出山に転封させ、氏郷に監視をさせた。その後も政宗はたびたび不穏な動きを見せるのだから、正解だったのかもしれない。