ベラルーシ問題の影響で、イギリスのカーター国防参謀長は「ロシアとの偶発的な戦争のリスクが高まっている」と発言した。戦争といえば兵士が重要であるが、織田信長の軍隊が最強だったのは、兵農分離により実現したという怪しい話をご存じだろうか。

■兵農分離とは

 織田信長は兵農分離を行って強力な軍隊を創出し、天下取りを狙ったという。兵農分離とは武士の在地性を否定し、城下に集住させることで、武士と土地との関係を切り離した政策だ。

 中世を通じて、兵と農との身分は明確に線引きされていなかった。武士たちの多くは村落に住み、自身も直接農作業に従事し、戦争が起こると出陣していたのが実情だった。

 つまり、上級の家臣を除いて「兵農未分離」という状態が普通であり、近世の城下町の典型例のように、家臣らが城下に必ずしも集住したとは言えない。

■太閤検地の衝撃

 天正10年(1582)に羽柴(豊臣)秀吉が台頭すると、まず着手したのが太閤検地だ(それ以前から萌芽はあった)。検地とは、農民支配と年貢の徴収を目的に実施される土地の測量のことだ。

 太閤検地では土地の測量に基づく生産高(および徴収する年貢)の把握のほか、①兵と農を分離し、兵は農業に従事しない、②武士(兵)は村落から離れ、城下に集住する、という兵農分離策を推し進めた。

 同時に刀狩りなどが行われ、農民は兵士としての性格を失ったといわれている。ただし、実際に兵農分離は一足飛びに定着したのではなく、江戸時代以降にわたって少しずつ定着する。

■信長が兵農分離を実現した根拠とは

 信長は天正4年(1576)から安土城(滋賀県近江八幡市)の築城を開始すると、3年後の天正7年(1579)には完成した。

 その途中、徐々に配下の者を城下に住まわせていたが、天正6年(1578)1月、安土城下に住む弓衆の福田与一の家が失火した(『信長公記』)。

 当時、与一は一人で居宅に住んでおり、そのことを信長が問題視した。家族がいれば、火事の被害を押さえることができたと考えたのだろう。改めて調べると、120人もの馬廻衆・弓衆は、尾張に家族を残しており、「単身赴任」であることが発覚した。

 怒った信長は、尾張支配を任せていた長男・信忠に命じて、彼らの尾張国内の家を焼払わせた。こうして家を失った廻衆・弓衆の家族は、安土城下に住むことを余儀なくされたのだ。

 この事例が示すように、信長は馬廻衆・弓衆を城下に集住させ、兵農分離策をすでに行ったと指摘されている。

 近世に入ると城下町に武士を住まわせ、身分に応じて居住区を定めたので、その先駆を成し遂げたのが信長であると指摘されたのだ。しかも、その兆候は安土城に移る以前から確認できるという。

■兵農分離は実現したのか

 信長の配下の兼松氏は、天正4年(1576)に近江国に所領を与えられた(「兼松文書」)。兼松氏は尾張国葉栗郡島村を本拠とし、所領は尾張国内にあった。

 本来、武士と土地とが分離不可分な関係だったことを考慮すると、これも武士の安土城下への集住つまり兵農分離の第一歩と認識されている。兼松氏に近江国内の所領を与えたのは、安土城下に強制移住させるためだったということになる。

 考古学の発掘調査によると、信長が永禄6年(1563)から4年間にわたり居城とした小牧山城(愛知県小牧市)には、武家屋敷の跡が残っているとの指摘がある。

 永禄10年(1567)から使用した稲葉山城(岐阜城:岐阜市)の麓には信長の居館があり、その周辺には重臣らの館があった。つまり、信長は城下に兵を集住させ、兵農分離を早い段階から意識していたというのだ。

 また、信長は槍や鉄砲などを効果的に用いた作戦を行ったので、配下の兵士は軍事的な専門訓練を受けたと考えられてきた。特に、鉄砲のような新兵器は、専門的な軍事教練なく、実戦で用いるのは困難だからだ。

■まとめ

 一方で、上記のような事例だけでは、信長により兵農分離が実施されたとは言い難いという、慎重な意見がある。

 当時、戦国大名の直臣(馬廻衆など)が城下町に住むことは、決して珍しいことではなかった。したがって、政策的に家臣を城下町に住まわせた兵農分離と、信長の事例を同列に考えてはいけないという指摘がある。

 現時点において、信長が城下町に家臣を集住させたことは明らかになったが、兵農分離を実現したとの明確な根拠はない。したがって、信長が兵農分離により強い軍団を築きあげたという見解は、成り立ちがたいようだ。