Yahoo!ニュース

【戦国こぼれ話】豊臣秀吉が造らせた「黄金の茶室」は、千利休が関与したのか。その衝撃の真実

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉の黄金の茶室は、贅を尽くしたものだった。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 大丸梅田店(大阪市北区)では、豊臣秀吉が造らせた「黄金の茶室」を復元・展示している。ところで、豊臣秀吉が作らせた「黄金の茶室」は、千利休が関与したのかを考えてみたい。

■黄金の茶室とは

 天正14年(1586)1月、豊臣秀吉は黄金の茶室を御所に運び込み、正親町天皇に披露した。黄金の茶室とは、室内に黄金をふんだんに用いた茶室のことで、広さは3畳。持ち運びできるように、組み立て式になっていた。

 黄金の茶室は、秀吉の権力そして富の象徴でもあった。翌年10月、秀吉は北野天満宮(京都市北区)で北野大茶湯を催した。

 そのとき注目を集めたのは、黄金の茶室である。それだけでなく、秀吉は茶器の名物を披露し、著名な茶人を招くなど盛会だった。

 文禄元年(1592)に文禄の役(朝鮮出兵)がはじまると、秀吉は前線基地である名護屋城(佐賀県唐津市)に黄金の茶室を持ち込み、大いに楽しんだという。

 秀吉は慶長3年(1598)8月に病没したが、黄金の茶室は大坂城内に残ったという。

 しかし、慶長19年(1614)に大坂の陣がはじまり、徳川家康が大坂城を攻撃すると、翌年に大坂城は落城して焼失。黄金の茶室も灰燼に帰したといわれている。

■復元された黄金の茶室

 黄金の茶室は大坂の陣で焼失したので、残念ながら現存していない。それゆえ、現存するのは、再現されたものに限られている。

 MOA美術館の黄金の茶室(静岡県熱海市)は、当時の文献史料を参照し、堀口捨巳氏の監修によって復元された。復元とはいえ、当時の趣を伝えるのに十分である。

 ほかにも大阪城天守閣(大阪市中央区)、石川県立伝統産業工芸館(石川県金沢市)などにも、復元された黄金の茶室が展示されている。ぜひ、実見したいものである。

■黄金の茶室に千利休は関与したのか

 いまだに謎なのが、黄金の茶室に千利休は関与したのかという問題である。当時、秀吉に茶を教えていたのが利休である。しかし、利休の真骨頂は侘び茶にあった。

 侘び茶とは、禅の思想を取り入れるとともに、道具や調度の豪奢を排し、簡素静寂な境地を重んじた茶の形式である。

 村田珠光が始め、武野紹鷗を経て利休によって大成された。侘び茶の志向は、秀吉の豪華絢爛さとは、一線を画していたのは事実だろう。

 では、黄金の茶室に千利休は関与したのだろうか。残念ながら、この事実を裏付ける史料は存在しない。とはいえ、昔から関心が持たれたテーマでもあり、さまざまな説が提示された。

 もっとも代表的なのは、黄金の茶室は秀吉が自らの権力や財力を見せつけようとした悪趣味なもので、侘茶の精神を重んじる利休が関与するはずがないという見解である。

 一方で、秀吉に茶を指導していた利休が関しなかったとは考えられず、豪華絢爛さも利休の美意識の一つとしてあったのではないかという指摘もある。

■まとめ

 この問題に答えるのは非常に難しいが、少なくともいえることは、秀吉が自らの権力や財力を見せつけるべく、黄金の茶室を造らせたのは疑いないということだろう。

 とはいえ、秀吉がまったくの我流で黄金の茶室を造らせたとは考えにくく、多く茶人に助言を仰いだ可能性は高い。その中には、当然、利休がいた可能性はある。

 つまり、黄金の茶室への関与は利休一人に限定するのではなく、秀吉のアイデアと茶人らの助言の融合とはいえないだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

渡邊大門の最近の記事