11月3日から京都府亀岡市の文化資料館で特別展「光秀その後の亀山」が催される。亀岡城は明智光秀の居城であるが、その築城と丹波国支配の真相はいかなるものだったのか。

■明智光秀の丹波国支配

 明智光秀が丹波国船井郡内に一定の支配権を有していたことは、年未詳12月1日付の織田信長朱印状写からも明らかである(「秋田藩採集文書」)。

 史料中の丹波桐野河内(京都府南丹市)は室町幕府の御料所(幕府の直轄領)で、長らく政所執事の伊勢氏が代官を務めていた。

 永禄12年(1569)10月、伊勢貞知の父・貞倍は信長によって、桐野河内三方分半分などを安堵されたことが確認できる(「伊勢文書」)。

 しかし、信長朱印状写によると、貞知は桐野河内を信長から取り上げられ、管領細川氏の流れを汲む細川信良の女房衆に与えられたことがわかる。信長は村井貞勝にこの旨を伝え、光秀に馳走が肝要であるというのである。

 当時、細川信良は信長に従っていたものの、実際のところ特に目立った活躍はしていない。

 天正3年(1575)9月2日、その信良は信長から丹波国桑田郡、船井郡を与えられた(『信長公記』)。

 これは、信良の実効支配を伴ったうえでの給与ではなく、実際に現地ですべてを差配していたのは光秀だったに違いない。

 信良に与えたのは、あくまで形式的な措置だった。現実には、光秀が丹波支配を展開していたことが明らかである。以後、数は少ないものの、光秀の丹波国支配に関わる史料は残っている。

■亀山城の普請

 天正5年(1577)1月頃から、光秀は居城となる亀山城(京都府亀岡市)の普請を実施する(「小畠文書」)。光秀は長沢氏らに対して、2月5日から10日まで亀山惣堀の普請を命じた。

 そして、2月5日からの森河内(大阪府東大阪市)の番(大坂本願寺への備えでの駐在)を同月12日まで延期することを当番衆に伝えるよう命令したのである。

 加えて、各々が鋤・鍬・もつこ(畚)以下を用意し、亀山に来てほしいと書状を結んでいる。この頃、光秀は丹波の土豪らの動員権を獲得していたようである。

 天正4年(1576)4月14日、信長は光秀と細川藤孝に守口(大阪府守口市)・森河内に取出(砦)を築くように命じた(『信長公記』)。

 最近の研究によれば、それは大坂本願寺攻めに関するものであり、取出(砦)の守備は丹波国衆が交代で当番を務めていたと指摘されている。

 その時期と亀山惣堀の普請が重なったというのである。この間、光秀は信長から大坂本願寺攻めを命じられ、出陣を余儀なくされていた。

 丹波国衆は亀山惣堀のほか、土普請にも動員したことが最近の研究で明らかにされ、光秀は丹波国に不在ながらも、配下の普請奉行によって差配されたという。

■いさ、本能寺へ

 天正10年(1582)6月1日夜、愛宕山から丹波亀山城(京都府亀岡市)に戻った光秀は、ついに信長に対して謀叛を起こすことを決意した(以下、『信長公記』)。

 光秀は重臣の明智秀満、斎藤利三、明智次右衛門、藤田伝五、三沢(溝尾)秀次と談合を行い、次のことを決定した。

①信長を討ち果たすべく、「天下の主」となるべく調儀(計画)をしっかり行うこと。

②中国へは三草山(兵庫県加東市)を越えるところを引き返し、東に進路を向けて老の坂(京都市西京区)を上って、山崎(京都府大山崎町)から出征することを諸卒に伝え、談合者(明智秀満ら五人)が先手となること。

 6月1日夜、明智軍は亀山城を出発した。明智軍は、1万余の軍勢だったといわれている(2万という説もある)。

 軍勢は備中へ向かう西のルートの三草山(兵庫県加東市)に進路を取らず、山城と丹波の国境の老坂に差し掛かると、沓掛(京都市西京区)で休息を取った。

 ここから南へ行けば西国街道のルートとなり、東へ行けば京都に至る。光秀の軍勢は、東の道に進路を取ると、桂川を越えて京都への道を進軍した。

 この頃には翌2日の明け方になっており、いよいよ本能寺(京都市中京区)へ向って、光秀の軍勢は大きく舵を切ったのである。

■まとめ

 光秀は信長から丹波攻略を命じられていたので、丹波支配の布石はすでにあった。しかし、信長は各地で敵対する諸大名と戦っており、光秀も転戦を余儀なくされた。亀山城は、その間に築城されたのである。

 光秀は丹波支配に従事したものの、亀山城に不在のことが多かった。しかし、配下の丹波の土豪らがしっかりと光秀を支えていたようである。