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【戦国こぼれ話】織田信長危機一髪!「金ヶ崎退き口」で殿を務めたのは羽柴秀吉か、それとも明智光秀か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
「金ヶ崎退き口」の際、織田信長は羽柴(豊臣)秀吉らの活躍によりピンチを脱した。(提供:アフロ)

 10月17日、若越敦賀歴史倶楽部が「金ケ崎退き口」をPRすべく、のろしでアピールすべく、敦賀市の大島公園で煙をたいた。このとき殿(しんがり)を務めて織田信長の危機を救ったのは、羽柴秀吉か、それとも明智光秀か。

■織田信長と朝倉氏との戦い

 織田信長が足利義昭を擁して上洛し、畿内で勢力を伸長すると、強い危機感を抱く者も出てきた。越前の朝倉氏は、早い段階から反信長の態度を示していた。両者が敵対するのに時間は掛からなかった。

 元亀元年(1570)4月、信長は若狭からの侵攻ルートにより、越前の朝倉氏の領国へ攻め込んだ。

 織田軍は敦賀郡に侵攻して手筒山城(福井県敦賀市)を落し、金ヶ崎城、疋田城(以上、敦賀市)の攻略に成功した。戦いは、信長が圧倒的に有利に進めていたのである。

 そして、いよいよ朝倉氏の本拠の一乗谷(福井市)に攻め込もうとしたとき、盟友だった浅井長政の裏切りを知った。

 信長は妹のお市を長政に嫁がせていたので、驚天動地の心境だったに違いない。『信長公記』には、「虚説たるべき」と書かれているほどだ。

 同年4月30日、信長は金ヶ崎城に明智光秀、羽柴(豊臣)秀吉、池田勝正を入れると、朽木越で琵琶湖西岸のルートをたどり、命からがら京都に逃げ帰ったのである(金ヶ崎退き口)。こうして信長は、諸将の奮闘によって窮地を脱したのである。

羽柴(豊臣)秀吉。
羽柴(豊臣)秀吉。提供:アフロ

■諸史料の記述

 「信長が金ヶ崎城に明智光秀、羽柴(豊臣)秀吉、池田勝正を入れた」という史料は一色藤長が得た伝聞に基づく情報(『武家雲箋』所収文書)であり、確実なものではないという指摘もある。

 『信長公記』には、「羽柴(豊臣)秀吉を金ヶ崎城に入れた」と書かれている。それは、『当代記』、『松平記』、『粟屋勝久戦功記』、『三河物語』といった二次史料も同じである。

 『寛永諸家系図伝』は秀吉だけでなく、その配下にあった木村重茲、生駒親正、前野長康、加藤光泰といった面々を加えている。秀吉をメインに据えているのは、『信長公記』などと同じである。

■まとめ

 「金ヶ崎退き口」で少なくとも秀吉が殿を務めたのは、明らかだろう。問題は光秀や勝正もともに殿を務めたのかということだ。先述のとおり、この事実を伝えるのは『武家雲箋』所収文書だけである。

 たしかに、「金ヶ崎退き口」の情報は伝聞かもしれないが、しかるべき筋からの情報だろうから、あながち無視はできない。危機的な状況だったのだから、複数の武将が殿を務めるのがセオリーだろう。

 したがって、二次史料の記述に従って、秀吉の率いる軍勢だけが殿を務めたのではなく、むしろ『武家雲箋』所収文書が書いているとおり、秀吉、光秀、勝正の3人が協力して殿を担当したとみるのが良いのではないだろうか。その際、秀吉が主導したとみなすべきかもしれない。

明智光秀
明智光秀提供:アフロ

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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